2015年5月27日水曜日

後屈深化

カポターサナに進んでから、後屈が更に深化中。最後のバックベンドで足首を掴むのがかなり楽になった。先生が手を離しても独りで立っていられそうなくらい、足腰が揺らがなくなってきた。そしたらば、今朝はじめて、床に降りずにそのまま足首掴ませてもらっただよ。むはー。エクスタシー。

…恍惚を感じつつ、最近、やたらと後屈ばかり深めていることに関して少し思うことがあります。

それについてはまた今度。

今日も素敵な一日を。

2015年5月26日火曜日

神をみる

ヨガは人生の哲学であり、心身ともに活力に満ち溢れ健康な体をつくります。
 アシュタンガヨガのひとつひとつのポーズを正しい順番で練習していくことにより、肉体、心理、精神といった、人体が潜在的に持っている能力を効果的に伸ばしていくことが可能になります。呼吸(ウジャイ・プラナヤーマ)、ポーズ(アサナ)、目の位置(ドリスティ)この3つを同時に正しく行うことで私たちの感覚とより奥深くにある意識をコントロールできるようになります。また定期的、献身的な練習を行うことにより、心身の安定を得ることができます。
 「アシュタンガ」とはサンスクリット語で、ヨガの八支則を指します。これらは禁戒(ヤマ)、勧戒(ニヤマ)、ポーズ(アサナ)、呼吸(プラナヤーマ)、五感のコントロール(プラティヤハーラ)、集中(ダーラナ)、瞑想(ディヤーナ)、三昧(サマーディ)の8つの枝から成っています。このひとつひとつの枝はお互いを支えあっています。これは、呼吸を正確に行うためにはポーズの修得が必要であり、それができてはじめてヤマ、ニヤマを身につけることができる、といったように全てが繋がっているということです。最初の外部的な4つの枝(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラナヤーマ)をしっかりとマスターしていくことにより、内部的な後の4つの枝(プラティヤハーラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマーディ)が自然と進化していくのです。
 「ヴィンヤサ」とは呼吸と身体の動きを同調させることを指します。呼吸は一つのポーズから次のポーズへと動きを正確につなげる手がかりとなります。
呼吸を通じ身体に入って来るエネルギーを外に漏らさないようにするテクニックである“ムーラバンダ”と“ウディヤナバンダ”を使いながら、呼吸と動きを同調させることにより、その結果体の中に非常に強い熱が発生します。この熱が筋肉や臓器を浄化し、体の中にたまった毒素を体外に排出させます。またこれと同時に有益なホルモンやミネラルが身体の中から放出され、汗が体の中に擦り戻されることにより更に体に還元されるのです。また呼吸がヴィンヤサをコントロールすることで、さらに効率のよい血液の循環が行われます。このような作用によって軽く力強い身体がもたらされてくるのです。
 アシュタンガヨガのシステムは3つのグループに分けられています。プライマリーシリーズ(ヨガ・チキツァ)は体を浄化し、身体のゆがみを矯正します。インターミディエイトシリーズ(ナディ・ショダナ)は神経器官を浄化し、エネルギーの経路を開き、きれいにします。アドバンスドシリーズA、B、C、D(スティラ・バガ)はさらに高いレベルの柔軟さと謙遜的な姿勢を必要とし、ヨガの修練が持つ力強さと優美な面を統合します。
 次のレベルのシリーズに進む前には、その前のレベルのシリーズを完全にマスターしていることが条件となり、ポーズが正確に順番通り行われていなければなりません。全てのポーズはその次のポーズへの準備となり、次のポーズへ移行するために必要な力強さやバランスを養うためのものであるということを忘れないでください。
 
【呼吸について】:
  アシュタンガヨガでは一定に連続した深い呼吸がとても重要視されます。呼吸が身体の動きを導くことで、動きがポーズを生み出し、それぞれの体の動きがなめらかに正確で完全に安定したものになります。
 シュリ・T・クリシュナマチャリヤとシュリ・K・パタビジョイスは「呼吸は人生である」と説いています。呼吸は私たちが行う最も根本的且つ不可欠な行為であり、神聖な物として扱われています。吐く息は神へ向かう行為であり、そして吸う息は神から授け物をもらう行為であるというように。私達は最期に息を吐ききって死に到ります。これは最終的な神への完全降伏を意味しているのです。
 
【練習について】:
  努力無しには結果はありません。これまで西洋に紹介されてきたヨガのイメージとは違い、アシュタンガヨガは力強さやスタミナや汗をもたらします。この肉体的にハードな練習を続けることは大変な努力を必要としますが、その結果、身体中にたいへんなエネルギーがもたらされ神経器官は浄化され、ますます力強く生き生きとなっていきます。そして精神的にはますます明るく光り輝き、明瞭になっていくでしょう。
「みるもの全てに神をみることができるようになる。」とシュリ・K・パタビジョイスは言っています。練習を重ねることでのみ、私達のグルがいつも言っていることの真理を感じ取れるのです。

「全ては神である。」

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以上の文章はシュリ・K・パタビジョイスの承認を受けた上でアニー・ペースが作成したものです。この文章は一切の変更無しでの場合のみ、再配布が可能です。

 

2015年5月22日金曜日

金曜レッド

今朝は珍しく平日のレッドクラス。
レッドクラスは今まで何かと予定が合わなかったりさぼったりで数か月ぶりの参加。

ついレッドをさぼりたくなる理由は

自分のペースでできるマイソールの方が好きだから。
決った開始時刻に行くのが億劫だから。(...)
セカンドまでやりたいから。
バックベンドやりたいから。

とか、まあどれもこれも身勝手な理由です。
エゴを減じるためにも定期的にレッドをやるのは大事、と先生が仰るのも納得でございます。

で、久々にレッドを受けたら、ものすごーーーーーーーーーーーく気持ち良かった。
チャトワーリでまだチャトランガでホールドしてなきゃいけないのに一人アップドッグしてしまうこと数回。

それでも、すごーーーーーーーーーーーーーく気持ち良かった。

皆と一緒に呼吸を合わせて。。。って呼吸なんてなかなか合いやしないけどね、でもカウントを合わせて、ぶつからないように気を遣い合いながら、同じポーズを同じペースで合わせて進めていく。
自分一人じゃ入れないゾーンに入る感覚があって、改めて人と人とのエネルギー交換みたいなものの素晴らしさを感じる。

こうして一緒に練習する仲間がいることとか、こうして緑に囲まれて光を浴びながら練習ができることとか、この場所に私を迎えてくれる先生がいることとか、あつい吐息をかけてくる犬がいることとか、そういう全てに愛しさがこみ上げた。幸せだなあ。

最後のチャンティングもいいのよね。
にゃえーなまるげーなまひまひしゃは。
ユージ先生を思い出すよ。
クロージングマントラは世界の平和を祈るマントラだから、自然にいつも色んな人の顔が浮かんできてどうか皆と皆の周りのすべての人が幸せでいますようにという気持ちになります。

そして最後のロカサマスタスキノバヴァントゥは私の一番好きなフレーズ。

Lokah Samastah Sukhino Bhavantu

”May all beings everywhere be happy and free, and may the thoughts, words, and actions of my own life contribute in some way to that happiness and to that freedom for all.”

Om Shanti Shanti Shanti

2015年5月18日月曜日

祝婚歌

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

吉野弘



2015年5月17日日曜日

スプタバジュラーサナ

ある晴れた5月の日曜日。

マイムーン明け3日ぶりの朝練、身体も心も軽くルンルンご機嫌な練習。

カポタもさっくり自分で踵を掴んで、私的にはカポタで一番苦しいBも気持ち良く出来てUPもしなやかに。

ビンヤサ入れて、お楽しみ恍惚のアジャスト付きカポタ(はーと)んふんふ  と期待に胸膨らませてたら先生は言った、はい、スプタバジュラーサナ。

がーん。カポタのアジャストって自力で掴めない人だけやってもらうということなのね。

はあ。後屈得意自慢じゃなくて、ほんとに私はカポタのアジャストがすごい好きなのでがっくりです。

しかも、スプタバジュラーサナ。
Google画像検索するとこのような見目麗しい画像が沢山でてきます。
ビクラムヨガではこっちみたい。


画像はこちらから拝借しました。

スプタ=横になる
バジュラーサナ=稲妻..サンダーボルト

ラグバジュラーサナの兄弟ですね!

美しくてそして気持ち良さげです。

この見目麗しいアーサナが何故かアシュタンガだとこんなぐるぐる巻き緊縛系ポーズになってしまいます。

キノ姫の動画から拝借。

なにあれ。ラグバジュラ並に見た目からの予想を裏切る難しさなんですけど。

全然無理、無理無理、バッダパドマの手が取れちゃうよー( ´ ; ω ; ` )

わたしはダンダーサナで指先しか床につかないほど手が短いんだよう。
胴長なんだよう。
バッダパドマだってムチムチのギリギリなのに繋いだまま後屈なんて無理過ぎる。

しかも地味に苦しくてほんと辛かった。

心の中でグルジに問いかけずにいられない。なぜあんなぐるぐる巻きにしようと思ったのですか。ビクラムで採用ののびのび系じゃダメだったんでしょうか。拘束系は好きです。でもここで手繋ぐ必要ありますか。インド人と欧米人はいいですよね、手足長くて。モンゴロイドは困りますよ。

Do your practice, all is comingって言われそう。笑

はーい。がんばります。

2015年5月8日金曜日

ユージ先生

ふと、一昨年亡くなったスタジオヨギーのユージ先生を思い出した。

スタジオヨギーの、という形容詞は適切かどうか分からないけど、私はヨギーでのクラスでずっとお世話になっていたから。私にとってはヨギーのアシュタンガのクラスのユージ先生だ。

ユージ先生のアシュタンガのクラスに毎週出ていた。
ユージ先生は、ご自分のことをアシュタンガの孫請けだと言っていた。

正式な練習は、指導者の元でデイリーに行う朝練マイソールなのだと。
自分がヨギーで教えているのは正式なアシュタンガの練習ではないのだと。
でも、自分のクラスが、初心者の人がアシュタンガの練習を始めるきっかけになって欲しいと。橋渡しになりたいと。

私はユージ先生の願い通りに、彼のクラスを入口に、マイソールでの朝練をはじめてアシュタンガの練習生になった一人だった。
ユージ先生と出会っていなかったら私はアシュタンガを続けていなかったかもしれないし、朝練を始めることもなかったかもしれない。

いまのシャラで朝練を初めてから、すぐにのめり込んで、ヨギーからは遠ざかってしまった。

ユージ先生にはマイソール始めました!と報告しにいきたかった。

孫請けティーチャーとして、わたしをアシュタンガへと繋げてくれたことに御礼を言いたかった。
朝練をはじめてどんなに日常が変化したか、伝えたかった。
練習は礼拝なのだと先生が言っていたことが今は分かりますと、伝えたかった。

でも先延ばしにしてる間に、ユージ先生が突然病気の療養でお休みに入ったと風の便りできいた。その数ヶ月には訃報が届いた。復帰を信じていた。復帰したらすぐに会いに行って報告と御礼をするのだと楽しみにしていた。あんなに身心ともに健康でしなやかで純度の高い人が死を迎えようとしていたなんて思いもよらなかった。


私は魂は永遠だし、思いは時空を超えると信じています。なので、伝えたかった感謝の気持ちはちゃんと亡きユージ先生に届いていると信じているし、悔やむ必要はないと思っている。

それでもやっぱり身体をもって同じ時間と空間を共にすることはかけがえのない瞬間であって。そのなかで、目を見つめて感謝を伝える機会を逸したことを残念に思う。

私達はありったけの愛と優しさを持って目の前の人に接するべきだし、伝えたい思いがあったら、会いたい人がいたら、差し出したいものがあったら、やりたいことがあったら、何を待つ必要もない、すぐさま行動に移すべきだよなと。そんなことをふと思った。

2015年5月7日木曜日

光に逆転するとき

鈴木秀子「死にゆく者からの言葉」から

....ヨノさんは生涯のなかで一番恥ずかしいに違いない、みっともない生活をさらけだしながら、それを通して、救い主であるイエスに、「この惨めな自分のところへ迎えに来て下さい」と叫んで最期の瞬間を閉じたのです。

人間というものは、たとえどんな人であろうとも、その人にとってマイナスだと思われてきたことが、あるいは一生の汚点であることが、最期の土壇場でひっくり返り、プラスになり得る現実を、この目で確かに私は見たのです。

売春婦としての過去を背負っていたヨノさんも、見栄っ張りで毛嫌いされていた福士さんも、終焉の瞬間に、全生涯に光を当てられ一生を完結したのでした。

こうした恵みが、いつの瞬間に与えられるのか、それは人智のはかりしれぬことでしょう。私はよく芥川竜之介や有島武郎や太宰治そして川端康成などの死を思い巡らします。すると必ずリルケの詩が思い出されます。それは、まさに彼らのために書き残されたと思えるのです。

なぜ、君は待たなかったか、その重みが、

耐えられぬものとなるまで、その時、

その重みは逆転するのだ、

それはただそんなに純粋だから

そんなに重たいのだ。

リルケ『鎮魂歌』


リルケは名もない小さい人たちに働く「恵みの瞬間」についての叡智を持った詩人に違いありません。と、同時に辛い最期を遂げた芸術家たちの姿は、生きている私達に激しく挑戦し生きる意味を問い続け、彼らの生と死を通して、私達の惨めさが光に逆転するよう促しているように思うのです。



2015年5月6日水曜日

母になる

連休最終日の今朝は、3日ぶりの朝練。

5ヶ月目の妊婦練に励む朝練同期生の隣をゲット。2年と数ヶ月前からほぼ同じペースで練習を進めてきた彼女が妊婦になってからマットを並べるのは初めて。なんだか感慨深かった。

フルプライマリーとドロップバック&カムアップまで私よりもいつも少し先に進んでた彼女は、母というステージに進んだ。

母になり子供を育てるということは、女性にとってどんな仕事よりもアーサナよりもチャレンジングで学びの大きい経験だと思う。献身のヨーガそのもの。子育てが、その間に犠牲にしなければならなかった10年分のアーサナの練習以上の価値があったと話していたのはサラスワティ先生だっけ?

向き合うべきことにひとつひとつ向き合って、一歩一歩きちんと前に進んできた彼女はきっとすごく素敵なママヨギーになるんだろうなあ。

少し先どころか大分先を行かれてしまったけれど、私も遠からず後を追いたいな(^o^)

私は妊婦練でカポタを決めてやる
(^ν^)

2015年5月2日土曜日

カポターサナ。拘束と解放

あっという間に春がきて、花が咲いて緑が溢れて5月になってGWがやってきました!

一生出来る気がしなかったポーズがある日ふと出来て、いつの間にか嘘みたいに身体や心が変化しているみたいに、自然の流れはいつもさりげなくて劇的で感動します。

むせ返るようなツツジの香りが好き。
緑が好き。カエルの声が好き。土の匂いが好き。地球は素敵ですね!!(誰

で、朝練でいまカポターサナまで練習してる私ですが、後屈が得意な私はカポタが気持ち良くてたまらない。フェイバリットポーズBest5に入りそう。フーフーいっちゃうけど、あのひっくり返され感は本当にたまらない。



カポタは自分でA・Bやった後、一度ビンヤサ入れてアジャスト付きでやるのだけど、前にも書いたけどこのアジャスト時のサレンダー感が私はもうたまりせん。官能的といっていいレベル。私のものは全部捧げます、ポケットもひっくり返して残らず差し出します、みたいな感じ。

身体を開いて、胸を開いて、どこまで自分を解放できるか?

というアーサナなんだと思う。あんなに拘束感の強いポーズでですよ、ムギュッとがっちり自分を拘束して、その中で自分を解放するってすごく面白いと思う。

そこでまた陰陽の話じゃないですけど、拘束と解放は対になるんでしょうね。

拘束系ポーズといえば他にも私が勝手に 「 I wanna get tied upのポーズ」と名付けているバッダパドマーサナや、「心身共に引きこもるのポーズ」スプタクルマーサナがあるけど、いずれも拘束感の中で深い安らぎを得るポーズだよね。(Mだから?)


さておき、みなさま良い連休を!