鈴木秀子「死にゆく者からの言葉」から
....ヨノさんは生涯のなかで一番恥ずかしいに違いない、みっともない生活をさらけだしながら、それを通して、救い主であるイエスに、「この惨めな自分のところへ迎えに来て下さい」と叫んで最期の瞬間を閉じたのです。
人間というものは、たとえどんな人であろうとも、その人にとってマイナスだと思われてきたことが、あるいは一生の汚点であることが、最期の土壇場でひっくり返り、プラスになり得る現実を、この目で確かに私は見たのです。
売春婦としての過去を背負っていたヨノさんも、見栄っ張りで毛嫌いされていた福士さんも、終焉の瞬間に、全生涯に光を当てられ一生を完結したのでした。
こうした恵みが、いつの瞬間に与えられるのか、それは人智のはかりしれぬことでしょう。私はよく芥川竜之介や有島武郎や太宰治そして川端康成などの死を思い巡らします。すると必ずリルケの詩が思い出されます。それは、まさに彼らのために書き残されたと思えるのです。
なぜ、君は待たなかったか、その重みが、
耐えられぬものとなるまで、その時、
その重みは逆転するのだ、
それはただそんなに純粋だから
そんなに重たいのだ。
リルケ『鎮魂歌』
リルケは名もない小さい人たちに働く「恵みの瞬間」についての叡智を持った詩人に違いありません。と、同時に辛い最期を遂げた芸術家たちの姿は、生きている私達に激しく挑戦し生きる意味を問い続け、彼らの生と死を通して、私達の惨めさが光に逆転するよう促しているように思うのです。

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