2015年3月31日火曜日

遠く求むるはかなさよ

衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、
衆生の外に仏なし、衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、
たとえば水の中にいて、渇きを叫ぶが如くなり…

白隠禅師


photo by たっしー(許諾なく勝手に利用)

神戸から戻ったらいきなり桜満開春満開!景色の移り変わりの早さに驚かされます。

ここしばらく、下ばかり向いていたわけでもないし、後ろばかり向いていたわけでもないのだけど。

でも、ぼんやりしてたら知らぬ間に全然違う世界に着いてしまったみたいな、スマホの画面を見つめている間に外の流れゆく景色を見過ごしてしまったような、なんだか変な感じ。

旅やイベントも素敵だけど、淡々と繰り返す日々の大切さを思う。

10日ぶりに朝練仲間や同僚に会うのもなんだか不思議な感じでキョドりつつも、嬉しくて嬉しくて内心はしゃいでいます。私はやっぱり、私の周りにいる人達がたまらなく好きな模様。

周りにいるのは心根の優しい人ばかりで、自分は本当に恵まれているなあとただ感謝。

そんなことをしみじみ感じていたら、同僚が貸してくれた本に上の和讃が引用されているのを見つけてまたしみじみ。

皆さんいつも優しくしてくれてどうもありがとうございます。

2015年3月26日木曜日

出稽古 in 神戸

久しぶりに朝練の話です!

神戸7日目にして、ようやく出稽古に行けましたー。かねてからチェックしていた楽の森のマイソールクラス


素敵なシャラでしたー!

まず、先生のすなおさんが気さくで素敵でした。レンタルマットがゴムじゃないやつしかなかったのだけど、ラグバジュラーサナまで練習してると言ったらじゃあコッチ使って!と言ってご自分のマットを貸してくださいましたー。フィニッシング中だったのに。

こういう風に自然にサッと人に何かを差し出せる人はヨギックで本当に素敵です。

彼女は我が先生のことも代行のヒーラー天使のこともご存知で、やっぱりアシュタンガやってると世界中に家族が出来るようなそんな嬉しさを改めて感じました!

ちなみに、すなおさんは私からのメールを受け取る前の晩に、犬にのしかかられてなめられる夢を見たそうです。それはきっと弊シャラのアイツに違いないですね!という話をしました。


朝練やってる人は10人弱だったのだけど、チャンティングがすごく力強かったです。
チャンティングは斉唱者たちとその場のエネルギーが織りなすオーケストラのようで大好き。私はいつも出稽古いくとチャンティングで新鮮なエネルギーに当てられて恍惚を感じます。

マット・コリリアーノ様の男性的なチャンティングも素敵だったなあ。

練習もとっても気持ち良くできました!

こちらのシャラの練習生の皆様は、長い間一途に練習してきたであろうことがその身体や呼吸や練習ぶりから見てとれて。シャラ全体がとてもいい気に満ちていました。

やっぱり私はまだまだヒヨッコだなあと思うと同時に、こういう素敵な先輩練習生たちとマットを並べて練習出来ることに言い知れぬ喜びを感じました。練習が終わったあと、感謝の気持ちが満ち溢れてその場を去るのが名残惜しかったです。

人生は素敵ですね!!!


許可を頂いたので写真載せます(^o^)/  練習ご一緒させて頂いてありがとうございました。


朝練に対するモチベーションが下がり気味だったかもしれない。ラグバジュラーサナでもう半年以上止まってて進歩の兆しもないし、インターミディエート練習生のくせにスプタもいまだに組めないし、などとこの後に及んで出来ないことに意識が向きがちだったかもしれない。

旅は素敵です。

小さなことに感動する繊細さを呼び起こしてくれる。

旅先ではなくても、いつでもどこでも、誰かと時空を共にすることというのは決して当たり前のことでないのに、日々の繰り返しの中でつい人はそれを忘れてしまうんですよね。

本当は、お馴染みの先生の元で、お馴染みの朝練仲間とマットを並べて、お馴染みの犬と一緒に練習することも奇跡みたいなこと。毎朝感謝しないとなあ。

みなさま神戸に行かれたら是非こちらのシャラで出稽古しましょう(^o^)/

2015年3月25日水曜日

淡路島、伊奘諾神宮参拝

引き続き神戸滞在中ですなう。
昨日、今日とお休みだったので神戸市街を離れ、舞子に2泊してみました。

滞在したのは舞子ビラというホテルで、明石海峡大橋を一望できる素晴らしいホテル。なんと海が見えない部屋は一泊6000円以下で泊まれて、ビジネスホテルよりも安い!よい気晴らしになりました。


明石海峡大橋たもとのデッキにて。舞子滞在中も空がやっぱり超絶に綺麗でした!

で、昨日は高速バスで淡路島へ行ってみました。淡路島を縦断してそのまま四国へも行けます。

徳島でお世話になった遍路宿に行きたい衝動を抑え、淡路島の真ん中辺にある伊弉諾神宮(イザナギ神宮)を目指すことに。

舞子から高速バスで津名一宮インターまで30分くらい。車窓からの眺めも綺麗。


津名一宮インターから路線バスに乗りかえて、神宮前のバス停で降りて…という事前計画も空しく、路線バスは全然本数がなくて次が2時間後でした。oh...

淡路島は電車がないということだったので路線バスが充実してるのかと勝手に思ってました。車社会なのね。

気を取り直して田園風景のなか伊奘諾神宮を目指してくてく歩くことに。お天気も素晴らしかったのでむしろ楽しく散歩できました。

緑に花に鳥に川に畑。ジブリのかぐや姫の歌、鳥虫獣草木花ー♩が頭の中でリフレイン。



寄り道しながら40分後くらいに伊奘諾神宮到着。


伊弉諾神宮は日本神話でイザナギとイザナミが国産みの後に隠居?した場所と言われているのだとか。

そういえば、日本神話の中でイザナギ・イザナミが日本国土を創出したときに最初に産まれたのが淡路島というお話でしたね!

話がそれますが、スサノオが亡き母イザナミを慕い黄泉の国にいる母の元へ行きたい、と咽び泣いて仕事を放棄したという話があります。昔聞いたときは何じゃそりゃと思いましたが今はなんだかグッときます。

僕(あ)は妣(はは)の 国に往かむと欲ひて哭く

無に還って母なる根源に戻りたい、私達にはそんな感じの深い回帰の欲求というか死への憧憬のようなものがある気がします。

スサノオはただのヘタレマザコンかと昔は思いましたが、そうではなくて彼の慟哭は私達のこうした深い回帰願望を表しているのではないでしょうか。

死んだら終わりの唯物的な考え方ではなくて、死は根源に還るもの、というのが日本人本来の死生観なのだと思います。

「ほとんどの人は、生きているだけで十分な悲しみを経験する。親や家族との死別によって。」そんな感じのことをどこかで誰かが書いていて(ソース忘れましたごめんなさい)確かに、と思ったことがあります。

どんなに幸せにみえる人でも、すべての人には死別という深い悲しみの機会が等しく与えられている。当たり前のことなんだけど、私は何だかはっとしました。

亡き母を求めて泣き続けたスサノオに「いや男の人は仕事放棄しちゃだめでしょ」などと引いてしまったかつての私には、死別の悲しみに対する想像力がなかったなあと。

伊奘諾神宮で日本のシヴァとパールヴァティ、イザナギ・イザナミ両神に参拝しながらそんなことを思いました。


夫婦楠。良縁祈願。


淡路島はまた機会があったら行ってみたいな。

今朝から神戸市街のビジネスホテルへ戻り、今日は湊川神社へいきました。ここも素晴らしく立派な神社でございました。


おしまい。

2015年3月22日日曜日

I love you

先日、今年から仕事で新たにチームになった本社の某インド人女性と電話で話していて、改めてこれからも宜しくネ的な話をしていたときのこと。

「自分は至らないところが沢山ある、感情的になって不適切な態度・対応をしてしまうこともある。そういうことがないよう努めているが問題を抱えて参ってしまうと難しいときがある、許して欲しい。」

そんな感じのことを伝えたらこう言われた 。

「私達はチーム、困難にも問題にも助け合って一緒に取り組む仲間」
「家族みたいなものなのだから、感情を見せ合うのは当然のこと(!)
「忘れないで、私はあなたの力になりたいし、あなたを愛している(!!)」
「毎日だってI love you と伝えたい(!!!)

!!!!!!
ナンデスッテー

I love youと言われた私は本当に息が詰まるほど胸がいっぱいになって呼吸困難になって卒倒するかと思いました。

ちなみに、彼女は医学博士をとってるばりばりのサイエンティストで大変にインテリジェントな女性です。私みたいな頭がお花畑のスピリチュアル女ではありません。

私は仕事関係の人達に愛してるとか言っちゃ流石にまずいよなと思って今までずっと飲みこんできたけど、そんな思い込みをやすやすと超えてしまいましたこのインド人女性。

なんという人間力。

言葉にして伝えることの大切さを改めて教えてもらいました。

過去に感じてきた仕事上のストレスや心理的苦痛が一瞬にして癒された。
この人のためなら私は何度でもネガティブなものは水に流して、何度でも頑張ろうと思った。

仕事であれ、家庭であれ、人と人が共同で何かを運営していくというのは大変なこと。それぞれ相手への期待が異なっていたり、前提となる認識がそもそも違ったり。立場が違えば視点も違う。お互い善意のもとに良かれと思って一生懸命やっているのに、衝突したりすれ違ったり平行線をたどったり。どちらも悪くないとわかっているからこそ、やるせない思いになることもある。

ときに分かりあえなくても、ぶつかっても、どんなに分断されたように思えてもそれでも「あなたを愛してる」と伝えあえたら世の中の問題の大半は問題じゃなくなる気がします。

論破よりアイラブユー。

「あなたは大切な人」
打算なしでまっすぐにそう言ってくれる人を、人は裏切れない。

私も愛と感謝のことばを惜しまずにいたいな。




2015年3月21日土曜日

春分の日 in 神戸

昨日は新月ムーンデー、今日は春分の日で引き続き始まり感満載でしたね!

私の周りは相変わらず怒涛の変化が続いていて何というかあっちこっちで強制執行的な人生の変化を皆さんお迎えのご様子で、もう私は大きな旗を振って全力で皆様の新たな門出を応援したい心境です。

人様の人生について細かいことは分からないけれど、ひとつ確信を持って言えるのはEverything will be alright!! まじで頑張ってください!何がどうとか知ったこっちゃないですがとにかく応援してます。すごい応援してます。私も頑張ります。


さて、昨日から出張で神戸にきてますなう。神戸は3回目でいずれも仕事なのでそんなに見て回ったりしたこともないのだけど、なんだか私はとても好きな街。

六甲山系の山々や海を見てるとわけもなく胸がいっぱいになる。若くしてなくなった父の父が、神戸の造船所で働いていたからかもしれない。なんかご縁があるのでしょう。



来るたびにいつも空がとてつもなく綺麗なのを不思議に思います。

この場所に歓迎されてるに違いない、と勝手に思っています。 

神戸入りしたときの空。新月数時間前。なんか起きてる風。


みなさま良い春を。
グーグル先生も春 


2015年3月16日月曜日

あるべき姿に

すべての存在はそれ自身になろうとしている。オタマジャクシはカエルに、蛹は蝶に、傷ついた人は健全な人に。 エレン・バス

There is a part of everything that wants to become itself – the tadpole into the frog, the chrysalis into the butterfly, the damaged human being into the whole one. That is spirituality.ーEllen Bass

2015年3月12日木曜日

細胞死と生命の営み

私が近年知って衝撃を受けたものの一つ、アポトーシスについて。

アポトーシスは理系の方、又は生物をちゃんと勉強した方にとっては常識なのかな?壊死ではない積極的な細胞死のこと。

私はこちらの本を読んで初めて知りました。
ヒトはどうして死ぬのか  死の遺伝子の謎」田辺靖一

アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死  出典:wikipedia

要するに、外的要因により壊れて死ぬのではなくて、予めプログラムされた「死のプラグラム」を然るべき時に発動させ自らを消し去る、そんな細胞死のこと。

前者の場合は事故死みたいな感じで壊れちゃったー、ブシャー、とぐちゃぐちゃになるのに対してアポトーシスでは細胞はまるで身辺整理をして飛ぶ鳥後を濁さず的に失踪する人のように一定のプロセスを経て綺麗に自らを解体し消し去る。

どんな時にアポトーシスが役割を果たすのかというと、例えば生物の形成過程。

私達には5本の指がありますが、それは5本の指がにょきにょきと生えてきたのではなくてどらえもんのような手をベースにそこから指と指の間の不要な部分を削り落とすことによって指の造形が作られている。蛹が蝶になったり、おたまじゃくしがカエルになったりするのも同じ。

あらゆる変態・変容は、予めプログラムされた細胞死によって、「消去すべき部分」を、然るべきタイミングで、積極的に消していくことで起こっている。

これって、すごい示唆的だと思いませんか???????!!!!!!!!

変容のプロセスというのは骨組みにペタペタ肉付けしていくように足していくことではなくて、不要な部分を消し去っていくことなんですね。

また形成の他にも、アポトーシスは異常を起こした細胞やがん化した細胞を消しさる、生命維持のための修復システムとしても機能しています。アポトーシスが正常に機能せず、死ぬべき細胞が死なないと個体にとってはまずいわけです。

細胞は個体を守るため、個体のより良い状態を保つために、受けとったシグナルから状況を総合的に判断し、然るべきときに死のプログラムを発動させて自らを消去する。

これまたすごい示唆に富んでいます!!

この本を読んで、わたしはヨーガスートラよりもバガヴァッドギータ―よりもクリシュナムルティよりもラマナマハルシよりも衝撃をうけました。

生命というのは本質的に利他的なのです。
すべての個体は全体を利するために振る舞うようになっている。

そしてそれは感傷的な自己犠牲なんかが入る余地のない、厳然たる生命の戦略なわけです。

私達の祖先は、単細胞生物のように延々と分裂・増殖するのではなくて、雄と雌の交配により新たな遺伝子セットの個体を産み出すことで、無限の可能性の中で命を繋いでいく進化の道を選んだ。この壮大な命のリレーを可能にするためには、予めプログラムした死によって古い遺伝子や問題のある遺伝子を確実に消去していく必要があった。

すべての細胞に死が予めプログラムされている。まさに死は生に内包されている。

生命を連綿と繋いでいくためには、その中に絶え間ない死が必要なのですね。

以前「今、いのちがあなたを生きているNow, Life is living you.) 」という言葉が親鸞聖人の遠忌のテーマとして京都の東本願寺に掲げられてました。

まさしく我々はみんなで様々な役割を分担しながら一つの同じ生命を生きているんだと思います。そして個体としての「あなた」は役割を終えたら死ぬ、「いのち」の永続性のために。 

私達に出来ること・すべきことは、それぞれの持ち場で自分の生を精一杯生き抜き、役割を終えたらすみやかに消え去る、ただそれだけ。

著者の田辺先生も本の中で書かれていますが、死を科学的に理解することは哲学的にもより本質的な死生観をもつ手助けになるのだと思います。


田辺先生は方丈記の一文「ゆく河の流れは絶えずして...」を引用し、こうも仰ています。

... 再生系の細胞はアポトーシスによって個体の循環に還り、個体は「二重の細胞死」によって自然に還り、わずか100年後には、いま自分の周りにいる人たちのほとんどが消え去ってしまうのです。 
このはかなさを超えるには、目に映る自然の美しさと、目には見えないその奥にある自然の大循環―‐二度と同じものを繰り返さない永遠性のなかから、新しい生命がつくられていくことの素晴らしさを感じ取るしかないのかもしれません。

なんという優しくて美しいことばでしょうか!!

私はこの本を読んだ時、知人の死や癌の宣告で死について思うことが多々あったせいもあって、感動に打ち震えて不覚にも涙が止まらなかった。

素晴らしい本なので是非読んでみてください。
ド文系の私でも分かりやすかったです。


私はちなみにこういう科学と哲学が出会う感じがすごく好きです。というか出会うも何も本来は科学と哲学は相反するものではなく同根なのだと思ってます。

科学医学技術関連出版社最大手のエルゼビア社のロゴには NON SOLUSと書かれていて、これはギリシャ語で not aloneという意味なのです。素敵ですね!哲学的です。万物同根を示唆してる感じですね。


そしてかの有名なネイチャー誌も150年前の創刊号では詩人ワーズワースの自然賛歌の詩をのせています。 http://www.nature.com/nature/about/first/

"To the solid ground Of Nature trusts the mind which builds for aye."WORDSWORTH.

永遠(とわ)につづく真の詩は自然を礎(いしずえ)にしなくてはならぬ─ワーズワース

素敵ですねえええ  

素晴らしき科学者は総じて素晴らしき哲学者なのだと思ってます。

2015年3月11日水曜日

正しさについて

文章というのは言霊というか書いた人のエネルギーみたいのが宿っている。

で、自分のブログの過去の記事をふと読み返してみたら書いた当時の自分の状態がリアルに再生されて、うおーって思った。

例えばこの記事

怒ってた怒ってた、超怒ってた。
インド人の上司と怒鳴りあいになってあげくI'm out!!!!などと言って一方的に電話会議を離脱したんだっけ。実にプロフェッショナルな態度である。笑

お互い情熱的だから仕方ないね、なんて言って後で和解したけど、いいオトナが仕事で怒鳴りあうのが情熱的なんだろうか。笑

しかもワタシは自分のブログで、まるで分かったような口を聞いているけど、その後何が起きたかというと、その言い合いの原因だった件はインド人上司が全面的に正しかったことが判明した。

ドギャーン。

私が誠実を貫くための戦いだ!などと息巻いて信じていた「正しい判断」は完全に私の思い込みで結果として正しくなかった。それを頑として譲らず、しかも自分ではニュートラルなつもりで居るというタチの悪い女。笑

無知は罪である。

まあ、速やかに謝って今では笑い話だけど。

思い込みを疑う、というのはすごい大切なことだと改めて思った。人は自分を中心に世界を見ているので、基本的に自分は正しいしモノを分かっていると思いがち。

他者を許す、とか受け入れる、という考えの根底にもそういう「自分は正しい」という思いがある。それはそれでもちろん大切なのだけど、「どれだけ自分は周りに許されて、受け入れられてきたのか」という気づきもとても大切。それが自分も他者に対してそうありたい、という思いに自然に繋がるんだと思う。


更に、自分を傷つけているのは往々にして「正しくありたい」と願う自分自身のひたむきさだったりする。


あなたは間違ってない、と繰り返し自分に言ってあげるべきだと思う。 
一方で、自分は正しい、という思いは何度でも何度でも捨てた方がいい。


...
今日は5年目の311ですね。被災者の方々の痛みや悲しみが癒えること、被災地の復興を改めてお祈りします。そして、私達ひとりひとりが、許されて受け入れられて、生かされているのだということを忘れずにいられますように。合掌

2015年3月9日月曜日

楽しみなこと

旧正月もあけて、梅も咲いて、なんだか暖かくなってきて、明らかに日が長くなって、朝練を始める時間には白けちゃうぐらいに明るくなって…

本格的に新たな一年が始まりました感が漂ってますね!

そんな季節にふさわしく、私は新たなことを始めることを計画してウキウキしてます。ふひひ。

2年前に朝練をはじめてからアシュタンガ一筋でやってきて、忘れられた花がひっそり咲いて散るように、早寝早起きの孤独な老人のように淡々と暮らし、ギータンジャリの詩のように自分というものを捨て去りたいと、いっそのことこのまま静かに消えてしまいたい位の隠者ぶりでしたが、(!)

今年は新しいことを始めたい意欲がむくむくと湧いてきているのです。

で、話がまたぶっ飛びますが、私は数秘術に興味があってそれによると2015年は個人的に9年サイクルの最初の年なのです。

従って直近2年を遡ると

2013年は8の年、達成・収穫
2014年は9の年、完成・統合

これがすごい納得で、というのは、

2013年:
朝練開始をはじめ何もかもが花開いて仕事もプライベートもカーニバル状態

2014年:
打って変って物理的・精神的な身辺整理を迫られた、まさに浄化、統合、リセット、完了のとき

といった感じの年の巡りだったんでございます。

数秘術おもしろいです。興味ある方は自分のも調べてみてください。

1の年はこれからの9年の方向性を決めて基盤をつくる年だと思うので、興味を引かれるものは時間・労力・お金を惜しまず何でもやってみようと思ってます。

もし、お金や時間や現実的な制約が全く何もないとして、もし、将来性や損得や人からの評価も全部無視するとして、やりたいことは何ですか?

これを今年は大事にするつもり。

そしてそれが9年10年と長く取り組めるものになるといいなあと。

やってみないとそこまで愛情を持って続けられるか分からなかったりするし、だから新しいことへの投資というのは躊躇しがち。

「富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られるのである」

という有名な聖書のことばがありますが、私はこのことばには「なけなしの豊かさもむしり取られる自分」を妄想して悲惨さにむしろ笑いが込み上げてきてしまいますがそれはさておき、これは実に核心をついたことばだと思う。

実際ナイナイと思ってるとなくなっていく一方なので、本当に好きなこと・やりたいこと・ウキウキすることには惜しみなく時間やお金や労力を投資したい。

骨の髄まで失われてジリ貧で打ちひしがれる自分を妄想するのも笑えますけどね。


ちなみにもはや全然練習日記じゃなくなってるけど一応ちゃんと練習してまーす

2015年3月7日土曜日

強さよりしなやかさ

いくつかプロジェクトをご一緒させて頂いている方で、仕事ぶりも経歴も超一流な方がいる。

今日機会があって現在のキャリア以前の紆余曲折のお話を伺い、またいたく感銘を受けた私。

世の中は素晴らしい人びとで溢れてるけど、この人スゲー!!!と脱帽する人は大抵一度は道を完全に見失うような挫折を経験していることが多い。

で、私は脱帽しながらこの言葉を思い出した。

Resilience over strength
強さよりしなやかさ

“Resilience instead of strength, which means you want to yield and allow failure and you bounce back instead of trying to resist failure.”

強さではなくしなやかさ、失敗に抵抗しようとするんではなくて、失敗を受け入れそこから跳ね返ってくること
伊藤攘一

http://www.wired.com/2012/06/resiliency-risk-and-a-good-compass-how-to-survive-the-coming-chaos/

アーサナの練習もそうだけど、人生全般でもやっぱりそう。

挫折が大きな飛躍のきっかけになるケースはすごく多い。それをクオンタムリープと誰かは言っていた。

なので、失敗を恐れずに果敢に挑むべきで、むしろどん底に陥ったらそれは人生を大転換させる最大のチャンスと思った方がいい。陰極まって陽となるみたいな。ゼロからやり直せるぜイェーイくらいに思っていいのかもね。

何も持っていないということは、それはそれで素晴らしいこと。

だいたい、はじめから失くすのを恐れるほどのものなんてよく考えると別に持ってなかったりするしね。

2015年3月6日金曜日

So long

親密さの度合いに関わらず、なぜか言い知れぬ親しみを感じる人達がいる。魂が共鳴するような感じ。

何気にそういう人はそこかしこに居たりするけれど、職場に居たそんな一人が、昨日会社を去っていった。

私が今の職場にきてからせいぜい3年程度の付き合いなのだけど、数千年位前から知っていたような気がする。わりと真面目に。そして勝手に、長い輪廻転生の旅路の中で何度も時空を共にしてきたいわゆるソウルメイトの一人ではないかと思ってる。

お互いの経験とか経歴とか表面的な情報についてそこまで知っているわけでもないのだけど、何にどんなことを感じてきたのか、どんな姿勢で物事に対峙してきたのか、何に向かっていこうとしてるのかとか、そういう魂の性質みたいなものは深く知っているような気がする。

昔どこかで一緒に修行してたんじゃないかなあ。そして今回は会社という場での修行をともにさせて頂いた。

色んなことを教えてもらった。自分を写す鏡のようでもあったし、私とは比較にならない人徳を持ったマチュアーな人でもあった。何でも話せる友達でもあり、良いことも悪いこともひっくるめて受け止めてくれるメンターでもあった。

嘘のない優しさを何度かけてもらっただろう。彼女の傾聴力に何度救われただろう。

ああ、思い出を振り返ると色んなものがこみ上げる。別に一生会えなくなわけじゃないのに。

門出を祝福しながらも、日々共有していた「場」から彼女がいなくなることは、やっぱり寂しい。

人生はこういう、ささやかでいて深い、軽くて重い、そんな別れの繰り返し。それをいまだに切なく思う。

同時に、思い出などという過去の代物をずっと大切にしたい、そんな風に心に触れる人達との出会いは本当に宝物だなと思う。

切なくて嬉しくて、小田和正のことばにできないをリピート再生したい気分。

あなたに会えて本当に良かった
そこに居てくれて本当にありがとう
これからも宜しくお願いします

So long – It will NOT be so long till we meet again.


2015年3月5日木曜日

満月、終わりと始まり

今宵は満月です。

友達が出産した。
大好きな同僚が退職した。

達成、結実、完了。
胸がいっぱいです。
心から祝福したい。
そして本当にお疲れ様。

これからまたはじまるサイクルがどうか楽しくて自由で、幸せなものでありますように。

これからの人生がどうかあなたにとって優しいものでありますように。

May you receive everything you deserve in life.