2015年2月24日火曜日

救えないもの

アシュタンガヨガというストイックなヨガを基本は毎朝、2時間かけてやってるとかいうとかなりのハードコアヨギだと思われたりする。

で、今日久しぶりに聞かれた、
ヨガってどうですか?と。
フラットになれますか?と。

うーん。
ヨガの素晴らしさを熱っぽく語りたいところだけど、なんだか自分にとってのヨガはそういうものではなくなってきたなあと思った。

ヨガというのはマットの上に立とうと立つまいと、ただ淡々と粛々とすべきことをしていく、その姿勢のことであって。

その本質はヨガジャーナルの綺麗なお姉さんばりにマットの上で素敵なウェアきて素敵なポーズを決めることでもなく、

呼吸とバンダを操って無我の境地で美しいフローを決めることでもなく

蓮華座にムドラーを組んで目を閉じて内側の静寂に溶けこむことでもなくて。

フラットになれなくても、無我になれなくても、どんな雑念や感情が去来しようとも、それも良しとすること。

どんなに受け入れ難い汚点を自分の中に見つけても、すべてを見つめて抱きとめること。

ヨガの実践てそういう日常での在り方そのものであって。

なんかその行の一つにすぎないアーサナの練習をもってヨガとはなんとか、と話すのはひどく間違ってる気がした。

アシュタンガヨガの朝練に限って?言うと、この練習は肉体的・精神的ともに働きかけが激しいので、不純物を炙りだす浄化力が強烈というか自分のダークサイドが嫌というほど表面化してくる。

はっきり言って、そういう意味ではヨガなんて全然素敵じゃないどころか、何か私は朝練なんてやってるせいで抑圧されてたダークサイドがやたらに顕在化してむしろ暗転してるんじゃないか?とか思うときすらある。orz

でもね、見苦しくて無様で、しょうもなくて救いようがない部分があっても、それで良いんだと思う。

仏教での菩薩の四つの誓いというのがあって私はすごい励まされるのだけど

一切の生命は無辺なれど、
私たちはそのすべてを救うと誓う

私たちの煩悩は無数なれど
私たちはそのすべてを断とうと誓う

仏の教えは無尽なれど、
私たちはそのすべてを学ぼうと誓う

仏の道は無上なれど、
私たちはそれを修めようと誓う

出来やしないけど!というのが前提になってるわけです。

いやー、いいですね。仕事の目標とかも全部このスタンスでいいんじゃないですかね。

ヨガの自分の弱さや怖れや頑なさに向き合うプロセスも、これと同じ。

救い切れないものをそれでも救う、
救えないと分かっててそれでも救う、
救えなくてもいいからそれでも救う、
祈りを込めて、ただひたすら。

そう、救えるか救えないかはあんまり問題じゃない。

と、救いようのない煩悩を抱えて思う、今日この頃。



2015年2月21日土曜日

布ナプキンのススメ

さすがにこんなことまでブログに書いてアクセス可能な個人情報として世界に公開すべきか逡巡があったけど、むしろ日々のどうでもいい考察よりもずっと沢山の人々に伝えたいことなので書きます。

生殖可能期間中の女性のみなさま、布ナプキンすごいおススメです!!!!!!

ケミカルのナプキンを使っている人が大多数だと思いますが、変えたほうが良かとです!!

ちなみに私はヨガなんてやってますがそんなにオーガニック志向じゃない。
ベジでもないしマクロビやローフードはあら素敵と思うけど、少しくらい毒も食らっとかないと逆に心身が弱くなるんじゃない?などと思ったりする。

修行が足りないのか、サットヴァ(清澄さ)に対する意識がまだまだ低い人間なのです。

なので布ナプキンなんて「おいおい生理用品まで布なんてオーガニックビジネスもまた新たなとこに目をつけたのね」などと冷めた目でみていて、全然興味なかったし自分が使うようになるとは思ってもいなかった。

使用に至った経緯と、関連してバンダと経血コントロールについても書かせて頂きます。自分が「わー!」と思ってググった割にあんまり人の体験がヒットしなかったから。

私は水泳をやってたので中学生位からずーっとタンポンを使っていて、ナプキン15年位?使ってなかった。

で、最近になってふと、医療用脱脂綿とはいえ異物を体内に挿入してるのってどうなの?と思ってなんとなーくナプキンにしてみた。

すると!なんと!

全然経血が漏れてない。ナプキンなんて不要なレベルで出血がない。少な過ぎてすぎて不安になったけど、トイレに行ったときにまとめて出る感じ。

正常な量は40mg120mg程度だそうで、トイレで間違いなく正常量は出せてるので問題なさそう。

これは俗にいう経血コントロールというやつでは!!

わーわー!全然コントロールしてないのに自然にコントロールされてる!
これって絶対バンダが関係あると思うんだけど、どうでしょうかアシュタンガ練習生の女性たち。

世間には経血コントロールヨガとかワークショップなどがあるらしいけど、バンダを意識したアーサナの練習を日課にしてたらきっと自然に身につくのだと思います。

そんなわけで嬉々としていたのも束の間、2日目頃には激しい違和感に襲われる。ナプキンに接触する部分の皮膚がひりひりして、明らかにかぶれてる。
3日目にはもう耐えられないくらいの拒否反応を示して、あの独特の匂いも拒否感があって自分にはこれは使用不可能と判断。

かといって、今後またタンポン挿入を続けるのもなーと思っていたところに布ナプキンの使用に思い至ったのでした。

もー、これがね、本当に快適で良いことずくし。悪いことなし。

使用前の懸念事項

      1.         使用済みを持ち歩きたくない
2.         洗うのが面倒
3.         洗濯ものと一緒にするのが抵抗ある
4.         ナプキンを干したり保管したりするのに違和感 

      5.        高そう。買い揃えたら5000円位?


で、私が買ったのはこれ
メイドインアースというお店の三つ折りタイプ。完全にただのハンカチです。


結果

1.         使用済みを持ち歩きたくない
→折り返して使えるので1日中変えずにOK

2.         洗うのが面倒
→入浴中に石鹸で付け置き、上がるときにツマミ洗いで綺麗に落ちる

3.         洗濯ものと一緒にするのが抵抗ある
→入浴ついでの手洗いだけで綺麗になるので洗濯機に回す必要なし

4.         ナプキンを干したり保管したりすることに違和感
→見た目は完全に厚手ハンカチ。手洗いすることもあってむしろ愛しさすら感じる

      5.       一枚900円、3枚で十分。

朝練仲間に聞いてみたら、意外とみんなケミカルで平気とのことだったけど、長年使い続けると皮膚に免疫ができるのかな。

身体が受け付けてるものを無理に「毒だ!!」と排除する必要はないと思うので、「きっと体に悪いからやめた方が良いよ!!」などと言うつもりはありません。

更に、経血量とコントロールの程度は個人差があるので、人によっては「洗うの全然楽じゃないよー」という人も居ると思います。

それでも尚、変えたほうが良いよ!!と皆に勧めたい。

理由はゴミとコストと意識の変化。

手洗いしたり、経血に意識的になる布ナプキンライフでひしひし感じたのは、今まで使い捨ての便利さを享受する為にすんごい膨大なゴミを排出しておったのだな…ということ。

しかも、先進国に住む生殖可能期間中の女性皆の消費量で考えるとちょっとすごいことになりますね。

日本全国で概算してみても、1年間で象1万頭分のゴミが出るそうでございますよ。ひー。

うえーって感じがしますが、そう、生理とか生理用品ていうのは隠さなきゃいけないような、なんだか汚れたイメージがある。サニタリーボックスには「汚物入れ」なんて悲しい別称があるしね。

そしてそのイメージはケミカル独特の匂いとか、垂れ流して捨てるだけ、という習慣によって作られたのだと思います。

血そのものは全然嫌な匂いなんてしないし、自分できちんと手洗いしてると汚物どころか慈しむべきものになる。

必要なものを、必要なだけ、大切に使う。

当たり前なようで難しい。でも習慣が変われば意識が自然にそう変わる。

地球規模の環境問題になかなか当事者意識を持つのは難しいけど、自分の身体に向きあうこと、日常のことから実践していくこと。

そこから始めていけば、意識は自然に変わっていくんだと思います。

2015年2月20日金曜日

悲しいこと

誰にも苦しんで欲しくない
たとえそれが必要な学びであっても

None of us are free, 
If one of us is chained.
None of us are free. 

Solomon Burke

Encouragement

あの手この手で励まされている気がして、
あの人もこの人も、
まるで私を励ますために遣わされた天使のように思えて、
有難くて、情けなくて、
感謝と愛情を伝えきれないことを
とても切なく思ったりする。


2015年2月19日木曜日

Nothing to prove

“You alone are enough. You have nothing to prove to anybody.” 
―Maya Angelou

あなた、だけで十分です。誰にも何も証明する必要はありません。
マヤ・アンジェロウ


nothing to prove.

何かになろうとする必要もないし、
誰かに分かってもらう必要もないし、
そのままでいいと、そういうことなんだと思います。

2015年2月18日水曜日

旧暦の大晦日に

新月ムーンデーの明日は、2015年旧正月でもあります。

個人的に新暦1月1日のお正月よりも、旧暦のお正月のほうが本格的にエネルギーが切り替わる節目のタイミングのような感じがする。

日の入りの時間が早くなるのを実感するのも、この時期だからかしら。

一番寒い時期、でも梅が咲き始めて、もう春がそこに来ていることを感じる時期。

以前はこの時期になると、どうして梅は寒い冬に咲いて春を待たずに散るのか、不思議に思ってた

春だ!暖かくなったから、咲きまあす

じゃなくて、
寒かろうと春だろうと

散るも忍ぶも、ただそのときを知る

というのがね。その心はいかに、梅さん、迷い多き私に教えてくれよーと思ったりした。

でも今は違うことを感じます。

冬も春も、分断された違うものではなくて、ひとつの同じもの。冬の中に春がある。春の中には冬がある。
そんな感じ。


来る新年が、皆にとってうんと幸せな一年になりますように。

皆さんも是非お願いごとしてみてください。  良いお年を(*^o^*)


2015年2月16日月曜日

思考しない

私たちの日常の思考は、99%自己中心的です。「なぜ、私は苦しむのだろう。なぜ、私は困難を抱えているのだろう」

禅マインド・ビギナーズマインド
鈴木俊隆


思考の迷走はエネルギーを浪費するだけ。まるで「退屈だからドラマを見る」みたいに思考することを時にはやめてみる。

2015年2月15日日曜日

お家でグダ練

今朝は寝坊したので久々に宅練。

家に置いてあるマットはJade yoga のトラベル用3mm、薄いからラグをひいてもガルバピンダーサナで転がるときにフローリングの固さが背骨に直撃。痛過ぎて悶絶。

スプタコナーサナで脚を降ろすとき、脚が着地するあたりにモノがあったので避けようとして途中で微妙に旋回したら派手に踵を打ちつけてすごい音がした。下の部屋のひとごめんなさい。

このあたりからどんどん集中力が切れてきて、セカンドのアーサナはどんな感じか気になって姿見を意識しまくり。ベカアーサナ、こんな左右差あったのかーとかウシュトラーサナは我ながら深い後屈だわーと悦に入ったりええ、もう完全にエゴがブリッティしまくりのモンキーマインドに。

バックベンドではまた動画とってみようなどと思いつき、そんな欲のせいで久々にカムアップに失敗する。それが気にいらなくてもう一度iPhoneをセットしてテイクツー。笑
そしてパスチモッタナーサナしながら撮影動画をチェックするというもはや全然ヨガの練習になってないふざけぶり。

そんなアホなことやってたら体が冷えてきたのでフィニッシングをスキップしまくって三つのパドマやってチャンティングしてヴィンヤサしておしまい、ベッドに潜り込んで丸くなったシャバーサナ。

ぐだれん。

まあ、ただのフィジカルエクササイズをしたってことで。

でも今日はいい日だった。(^ν^)

2015年2月14日土曜日

気づく

" 瞑想をしているとき、自分はとんでもなく混乱していて頭がおかしいのではないかと感じてショックを受けることもあるかもしれません。< 中略 > 心をまったくコントロールできずに絶望的です。でも、心配しないでください。問題ありません。こんなに混乱していても、昨日の自分よりは賢いのです。これまでもずっと今と同じように頭がおかしかったのですが、それに気付いていなかったのです。"

マインドフルネス 気づきの瞑想
バンテ・H・グナラタナ
出村佳子 訳

太字部分www なんという的確な指摘。じわじわくる。


2015年2月13日金曜日

花も空も

“You must understand the whole of life, not just one little part of it. That is why you must read, that is why you must look at the skies, that is why you must sing, and dance, and write poems, and suffer, and understand, for all that is life.” 
― Jiddu Krishnamurti

Yet I wish you all nothing but love, peace and happiness. 

ah maybe at the end of the day you will see it in everything, that's what happens when you truly understand the whole of life I guess...

2015年2月9日月曜日

随想: 朝練3年目

「色んなところにいって、色んなことをしようね

20歳位のころ、当時の恋人にそんな風に話していた。

これは、その彼との関係性に限らず、私が世界に求めたすべてを凝縮している。

そう、私はいかにして世界を楽しみ尽くしてやろうかワクワクしていてキラキラな冒険心に満ちていた。

「色んな場所に行って、色んな人に出会って、色んなものを見て、色んな経験をしたい」

☆キラキラキラ☆....

実際、これは自分自身の人生の原動力だった。

そのキラキラな思いに駆られて、あっちへこっちへ、一見するとまったく一貫性のない道程を公私に渡って歩いてきたのだった。

海に潜ったり、波乗りしたり、クラブで朝まで踊ったり、ヨガをやったり、大学を辞めてみたり、仕事に没頭してみたり、転職したり、無職になってみたり。

そして、動機はキラキラで無邪気だった割に( というか光があれば闇があるのが自然の理か )ときにそれは色濃い陰を作りだし、全然楽しくない暗黒の道程も歩く羽目になった。

自分の問題から逃げて逃げて、海を渡って1万キロ先まで逃げて、ようやく「どこへ行こうと同じこと」だと思い知らされたこともあった。

そこまでお金と時間と移動距離をかけて善良な登場人物を巻き込んだドラマを演じなければ、自分の内側の問題に向き合うことすらできない。そんな自分の弱さに愕然とした。

そんな感じで、振り返ると黒歴史としか言えない経験、ただただ残念としか言えないしょうもない経験もすごく多いのだけど、笑

でもそれすらもきっと「経験してみたかった」ことなんだろうなあと、今は思う。

きっと、どんな経験であれ、純粋にキラキラと「海に潜ってみたい!」と願い選んだことと、魂のレベルではやっぱり同じことなのだと思う。

「わたし、『無職になって目標もなくして途方にくれてそこからまた生活を建て直すチャレンジ』ってどんな感じか経験してみたい!☆キラキラ☆」みたいな感じ?

30過ぎても独身で残念だけどもう私はもしかするとこのまま一生一人かもしれないという暗澹たる思いを感じてみるチャレンジ!』とか笑

いやそこまでスペシフィックかどうかはわからないけど、人は結局、深い部分で自ら経験したいと望んだことだけを経験するのだと思います。

色んな経験を通して、自分が何にどんなことを感じてどんな反応をするのか、問題にどう対峙するのか、自分とは何かを知るために。

海の中がどんなかは、潜ってみないと分からない。

(潜ってみないとほんと分からない。どれだけ深いか、飛び込んでみて驚いたりする。沖縄の海はほんと綺麗だった、あー死んだら帰りたい)


若かりし乙女だった頃の私は、世界中を旅してありとあらゆる経験をして、世界を知ることで自分を知りたいと願った。

いつからか、特に朝練を始めてから、外へ外へ向かっていた意識は完全に内向きになっていって、今は自分を知ることで世界を知ろうとしてるのかもしれない。

それで、その取り組みの一環として、人からみたら「何でそんなことするのか意味不明」なことをマットの上で馬鹿みたいに一生懸命やったりしている。

そしてそれは結局はマットの外でやってきたこと、やってることと、やっぱり同じことなんだとも思ったりします。人が選びとる経験と、その経験のなかで何を感じ何を学び取るのかというのは、極めて個人的なものである、という点で。

誰かが床を9回転がってようと、飲んだくれてようと、その人のその経験を他人が判断・評価、意味付けしたりすることはできないわけです。

えーと、何か意味不明になっちゃいました。

とにかくも。朝練3年目を迎えた今日この頃に思うこと。

人は誰もが皆、そうして経験するべき経験を果敢に自ら選びとり、滑稽で切ないくらいに一生懸命に生きるべき人生を生きる、ひたむきで純粋な存在なのだと、そう思います。

経験として何を選ぶのかは大した問題じゃなくて、マットの上に立つのか立たないのかも、別にどっちでもいいんだと思います。

そこから何を感じて、何に気付いて、何を学ぶのか? 大事なのはそれだけじゃないかしら。


ということで皆様、引き続き頑張りましょう。
(・ω・)ノ


引きこもる前のキラキラなhanuman on the beach.

2015年2月4日水曜日

嬉しい

ある方に連絡したら、「思い出してくださってありがとうございます。嬉しいです。」と言われて何だかとても嬉しかった。

その人に嬉しいと言ってもらったのが意外だったからかもしれない。

え?私からの連絡が嬉しいだなんて?本当に!と。


嬉しいですって、なんて素敵な響きなのかしら。

会えて嬉しい、連絡くれて嬉しい、声がきけて嬉しい、顔が見れて嬉しい、 ・・・・

言い替えると、「あなたが好きです」

こんなに簡単に、相手との関係や性別や年齢や立場に関わらず愛の告白ができるというのは素晴らしいなあと。思いました。

そう、親密さの度合いに関係なく、相手のことをあまり知らなくても、好きなものは好きだし、それを表明していい。


仕事という修行の場ではしばしば魂を揺さぶられる経験をする。それで私はたまに取引先の人とか同僚に対して愛と感謝の気持ちが満ち溢れて、思い余って「大好きです」とか言いたくなるんだけど、さすがにそれはちょっと憚られる。当惑させてしまう可能性大なので。(相手が男性であれ女性であれ...)

嬉しいという言葉、乱用してやろう。



読んでくれて嬉しいです!!
ありがとうございます。

2015年2月2日月曜日

I am that I am

昨日観た映画エクソダス。

モーゼは神の啓示を受けて出エジプトを敢行するのだけど、最初の神との対話でモーゼが神に「お前は誰だ?」と聞く場面があって、神はこう答えます。

"I am that I am" 

わー!ラマナ・マハリシ!

字幕の訳は忘れちゃったけど、直訳すると「私は、"在る"というものです」

精神世界に親しみがない人は全くもって意味不明かもしれないけど、ヨガ的にはお馴染みな感じですね。

私はラマナ・マハリシの言葉を真っ先に思い出したのだけど、ググってみたらどうやらこちら、聖書の出エジプト記で神がモーゼに伝えた言葉の方が有名な模様。

モーゼの十戒には
「神が唯一の神である」
「神の名をみだりに呼んではならない」
とありまして、名を呼ぶのも畏れ多い唯一絶対の至高の存在、" I am that am "
… という感じが致します。

一方でマハリシ師が" I am that I am " という表現で定義しようとしたのは他ならぬ私達自身のこと。

私は誰なのか?

この問いがすべてだと、マハリシ師は説いていわく

---
誰もが真我を知りたいと望んでいる。

自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?

人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。

だが真我は永遠不変に存在し続ける。

彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。

どうしてそうありえよう?

真我は光ではなく、暗闇でもない。

それはただあるがままに在る。

それを定義することはできない。

最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。

---

ラマナ・マハリシの本、「あるがままに」は某読書家アシュタンギに一年ちょっと前に借りた。

それでちょうど一年前、精神的恐慌状態で飛んだインド出張にお守りのように連れていったんだった。

こういう聖者の言葉を読んで色々な勉強をしても、朝練や仕事で色々な行を実践しても、まだまだ揺らいでばかり。

私は誰?

分かったつもりになっては忘れて揺れる。

三歩進んで二歩下がる、我が修練の旅。

2015年2月1日日曜日

歴史の終わり

フランシス・フクヤマという人が90年代初頭に「歴史の終わり」という本を書いていて、その仮説は大きな議論を起こしたらしいのだけどすごいざっくり言うと

これまでの人類の歴史のなかで、共産主義やら帝国主義やら様々な社会体制があったけれども、人間性に反するものや生産的でないものは自然に淘汰されて最終的には最も優れた持続可能なもの---自由経済と民主主義に行き着く。そして、あーでもないこーでもないと闘争や革命を繰り返してきた人類の歴史のドラマは終焉を迎える。

みたいな感じ。

2015年現在。

いまだに戦争は起きていて、人が人を殺してる。歴史、全然終わってない。とても悲しい。


イスラム国に囚われていた後藤健二さんが殺害されるというショッキングなニュースがあった今日の今日、前から予定していたのでモーゼの出エジプトを描いたハリウッド映画エクソダスを見てきた。

中東問題はあまりに根深く複雑だし、史実がどうという問題はさておき考えさせられたのは、理由はどうあれ我々人類が数千年前から侵略と搾取、迫害と殺戮の所業を働いてきた、ということ。今の倫理観では到底あり得ないレベルの残虐さと野蛮さで。

数年前、あるとき父がフランシスフクヤマの「歴史の終わり」に言及して、人間性の勝利としての歴史の終わりどころか人は果たして進歩してきたのだろうか、と呟いたことがあった。

私はそのとき反論したけど、分からなくなってきてしまった。

私達人類は過去の痛みからきちんと学ぶべきことを学んできたのか。

長い歴史のなかで散々やらかしてきてお互いに恐怖や痛みや悲しみを経験してきてその後に及んでまだ憎み合ったり傷つけ合ったりしてる。


亡くなった後藤健二さんの過去のツイートが話題になっているけれど、こうしたメッセージが世界に広がることにせめてもの希望に思います。

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」

同時に、すごく悲しい。こうしたあまりに悲痛な犠牲、もちろん後藤さんだけじゃなくて無数の命の犠牲が、全体の学びのために払われていることにやり切れない悲しみを感じます。

恐怖で人を支配することは出来ないし、報復から得るものなんて何もない。

私達人類が真にそれを学ぶことが、過去長い歴史に渡って犠牲になった人びとの鎮魂になるのだと思う。

世界が平和になりますように。

合掌