昨日観た映画エクソダス。
モーゼは神の啓示を受けて出エジプトを敢行するのだけど、最初の神との対話でモーゼが神に「お前は誰だ?」と聞く場面があって、神はこう答えます。
"I am that I am"
わー!ラマナ・マハリシ!
字幕の訳は忘れちゃったけど、直訳すると「私は、"在る"というものです」
精神世界に親しみがない人は全くもって意味不明かもしれないけど、ヨガ的にはお馴染みな感じですね。
私はラマナ・マハリシの言葉を真っ先に思い出したのだけど、ググってみたらどうやらこちら、聖書の出エジプト記で神がモーゼに伝えた言葉の方が有名な模様。
モーゼの十戒には
「神が唯一の神である」
「神の名をみだりに呼んではならない」
とありまして、名を呼ぶのも畏れ多い唯一絶対の至高の存在、" I am that am "
… という感じが致します。
一方でマハリシ師が" I am that I am " という表現で定義しようとしたのは他ならぬ私達自身のこと。
私は誰なのか?
この問いがすべてだと、マハリシ師は説いていわく
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誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
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ラマナ・マハリシの本、「あるがままに」は某読書家アシュタンギに一年ちょっと前に借りた。
それでちょうど一年前、精神的恐慌状態で飛んだインド出張にお守りのように連れていったんだった。
こういう聖者の言葉を読んで色々な勉強をしても、朝練や仕事で色々な行を実践しても、まだまだ揺らいでばかり。
私は誰?
分かったつもりになっては忘れて揺れる。
三歩進んで二歩下がる、我が修練の旅。
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