アシュタンガヨガというストイックなヨガを基本は毎朝、2時間かけてやってるとかいうとかなりのハードコアヨギだと思われたりする。
ヨガってどうですか?と。
フラットになれますか?と。
うーん。
ヨガの素晴らしさを熱っぽく語りたいところだけど、なんだか自分にとってのヨガはそういうものではなくなってきたなあと思った。
ヨガというのはマットの上に立とうと立つまいと、ただ淡々と粛々とすべきことをしていく、その姿勢のことであって。
その本質はヨガジャーナルの綺麗なお姉さんばりにマットの上で素敵なウェアきて素敵なポーズを決めることでもなく、
呼吸とバンダを操って無我の境地で美しいフローを決めることでもなく、
蓮華座にムドラーを組んで目を閉じて内側の静寂に溶けこむことでもなくて。
フラットになれなくても、無我になれなくても、どんな雑念や感情が去来しようとも、それも良しとすること。
どんなに受け入れ難い汚点を自分の中に見つけても、すべてを見つめて抱きとめること。
ヨガの実践てそういう日常での在り方そのものであって。
なんかその行の一つにすぎないアーサナの練習をもってヨガとはなんとか、と話すのはひどく間違ってる気がした。
アシュタンガヨガの朝練に限って?言うと、この練習は肉体的・精神的ともに働きかけが激しいので、不純物を炙りだす浄化力が強烈というか自分のダークサイドが嫌というほど表面化してくる。
はっきり言って、そういう意味ではヨガなんて全然素敵じゃないどころか、何か私は朝練なんてやってるせいで抑圧されてたダークサイドがやたらに顕在化してむしろ暗転してるんじゃないか?とか思うときすらある。orz
でもね、見苦しくて無様で、しょうもなくて救いようがない部分があっても、それで良いんだと思う。
仏教での菩薩の四つの誓いというのがあって私はすごい励まされるのだけど
一切の生命は無辺なれど、
私たちはそのすべてを救うと誓う
私たちの煩悩は無数なれど、
私たちはそのすべてを断とうと誓う
仏の教えは無尽なれど、
私たちはそのすべてを学ぼうと誓う
仏の道は無上なれど、
私たちはそれを修めようと誓う
出来やしないけど!というのが前提になってるわけです。
いやー、いいですね。仕事の目標とかも全部このスタンスでいいんじゃないですかね。
ヨガの自分の弱さや怖れや頑なさに向き合うプロセスも、これと同じ。
救い切れないものをそれでも救う、
救えないと分かっててそれでも救う、
救えなくてもいいからそれでも救う、
祈りを込めて、ただひたすら。
そう、救えるか救えないかはあんまり問題じゃない。
と、救いようのない煩悩を抱えて思う、今日この頃。

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