2015年1月28日水曜日

自己責任と「夜と霧」

ソーシャルメディアの台頭で、世界中の人々のリアルな声がリアルタイムで確認できる時代になって、ブログメディアだったりソーシャルプラグインだったり、望まずとも勝手に人々のコメントが流れ込んでくるようになった。

人の思いは瞬時に世界を駆け巡り、共鳴し繋がって増幅して大きなうねりになる。
それは個人をいじめ殺すこともあれば、世界に広がる大きな祈りの輪にもなることもある。
集合意識が可視化されたみたいで、圧倒される。

最近はイスラム国の日本人拘束事件に対する反応が気になって、人質になった二人について、いわゆる自己責任論、自業自得だろ的なコメントや貶めるコメントも沢山見かけて違和感を感じた。


それはさ、確かに自業自得の自己責任ですよ。
どんなことも、自分の世界で起きるすべては自分の責任ですよ。万物は意識の反映ですからね。

でもね。だからといって自業自得で窮地に陥ったひとは救済に値しない、といことにはならない。
自己責任と、そこに他者がどう関わっていくか、ということは全くもって別問題でしょう。

自己責任だから助けなくていい、思いやる必要はない、貶めてもいい、という理屈だったら見捨てられる人だらけになる。どこからが救えない馬鹿で、どこからが救える馬鹿なんでしょうか。

自己責任の自業自得、そんなことは私達全員に共通の前提であって、その上でお互いに助け合い補い合うのが生命として自然な姿でしょう。

自分はどう在るのか、どうするのか、それがすべてであって、相手が、状況が、人様がどうだろうが関係ない。

自分の責任の問題を人の責任にすり替えちゃいけない。これは自戒をこめて書いてます。

そんなことを思っていたらV.E.フランクルの「夜と霧」の中のことばを思い出した。
「夜と霧」は心理学者である著者が強制収容所での体験を書いた本。
史上最悪の地獄のような境遇のなかで、「人生に意味をもはや何も期待できない」と絶望していく人たちにフランクルはこう答えた。


ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。

すなわち人生から何を我々はまだ期待できるのかが問題ではなくて、
むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。 

すなわち我々が人生の意味を問うのではなくて、
我々自身が問われたものとして体験するのである。
人生は我々に毎日毎時問いを提出し、我々はその問いに、口先や詮索ではなくて、正しい行為によって応答せねばならないのである。

人生とは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。



折しも先日はアウシュビッツ解放70年だったらしい。
もう、人が人を傷つけ苦しめるようなことは終わりにしないと。
怒りや支配や恐怖の為に戦わないと、誓わないと。追悼にならないよ。

苦しい状況におかれた全ての人が早く自由になりますように、
痛みや悲しみが早く癒えますように
犠牲になったかたには安らかなご冥福を

お祈り申し上げます。

同行二人

今朝のシャバーサナ中に何故か急にお遍路のことを思い出した。
2013年の秋、徳島出張でお遍路宿に泊まったときのこと。

素晴らしい時間をそこで過ごしたので、思い出したら胸が苦しくなるくらい切なさと愛しさが溢れた。
さっさとシャバーサナを切り上げて、しばし坐って愛しい思い出に浸った。


滞在したお遍路宿のオーナーは、自身も5回歩き遍路で結願(88か所走破)されていて、今度は自分がお遍路さんをサポートしたい、とリタイアしてから徳島に移り住んだ方。
彼はお遍路について経験に基づいた色々なお話をしてくださったのだけど、それはとても深くて示唆に富んだもので印象的だった。

中でも心に残ったのは、同行二人のお話。
お遍路さんが持つ笠や杖に書きつけられているこの言葉は(どうぎょうににん)と読みます。
弘法大師さまとお遍路さんの二人連れ、という意味。見えなくても大師さまがいつも一緒に歩いてくださっている、ということ。

四国88か所は全部回るとその移動距離は約1400kmに及び、歩きだと40日位かかるらしい。

135km毎日歩き続けるのは体力的にもやはり相当きつくて、途中で「もう歩けない」という時がくるんだそう。そんな時、不思議に自分一人の力とは思えない一歩が踏み出せる瞬間があって、そういう時に一緒に歩いてくださっている大きな存在を感じるのだとか。

この話を聞いて私は思った。

同行してくれるのは、必ずしも弘法大師様ではないかもしれない。

それは人によっては、今は亡き愛する人だったり、ご先祖様だったり、遠く離れた大切な人だったりするかもしれない。クリシュナかもしれないし犬かもしれない。

人は誰しも、自分の道を一人で歩いていくもの。でも、決して一人ではない。

もう歩けない。もう一歩も前に進めないし進みたくない。人生の道程では、そんな風に一人しゃがみこんで泣きたくなるときもあるかもしれない。

でも、あなたがどんなに落ち込んでも愚図っても、片時もあなたの側を離れず、見守り、励まし、一緒に歩いてくれる存在が間違いなくいる。

同行二人。素敵な考えだなと思います。



2015年1月26日月曜日

過去も未来も今ここに(2)

前回の続き。

スピリチュアルとか自己啓発とか形而上学的な本がだいぶ一般化してきたからか、はたまた自分がヨガだの禅だのに親しむようになって出会う人やモノや本の質が変わったせいか、似たような考えを見聞きするのは珍しくなくなった。

最近だとハリウッド映画の「インターステラー」。
サイエンスフィクションで「時空を超えられるのは愛と重力」なんてワタシはぐっときました。
主演のマシューマコノヒー様は以前にも「コンタクト」で科学 vs 愛と信仰 がテーマのサイエンスフィクションに出てたけど、あれも素晴らしい映画でございました。

だけど何年も前に時間の概念について気になり始めた頃は、自分的には衝撃的な気づきだった割りに同じような考え方を見聞きする機会がなかったので、賛同者が周りにいないかもう気になって気になって仕方なくて色んな人に議論を吹っかけては困らせていた。

で、そんな中で、自分が感じる「一般的な概念とはちょっと違う時間の概念」について描写・説明していることばに出会うと「そうそう、それそれー!!!よくぞ言葉にしてくださった!!」と嬉しくなったものでした。初めて出会ったのがこちら。


Before sunset(映画)

冒頭部分で、作家である主人公が小説のアイデアを話すシーン。
この内容は本編とは全然関係ないけど、本編よりも印象に残ってしまった。
ちなみに本編も素敵でとっても良い映画です!
エスプリの効いた男女の会話だけで織りなす恋愛映画。

以下、該当部分の原文スクリプトと勝手な意訳。というか私の解釈でかなり超訳してるのであしからず。

---
「ここに一人の男がいる。彼は、すっかり落ち込んでいる。

彼のかつての夢は、バイクで南米を駆けるような冒険者になることだった。

でも今、その代わりに彼は安定した仕事に就いていて、美しい妻がいて、そしてテーブルでロブスターを食べている。

必要なすべてを、彼は手にしている。でも、そんなことは重要ではない。

彼が望んでいるのは、意味あるものの為に戦うことだからだ。幸せというのは、正しいことをすることではなくて、望むように生きることだからね。


とにかく、そうして彼はそこに座っていてすると次の瞬間、彼の5歳の娘がテーブルの上に登ってしまうんだ。

彼はもちろん娘を降りさせなければと考える、落ちて怪我をしてしまうかもしれない。

でもサマードレスを着た彼女はテーブルの上でポップスに合わせて踊っている。


彼は下を向いてその瞬間、突然に、16歳の頃に引き戻されるんだ。

彼はガールフレンドに車で家まで送ってもらったところで、二人はその日初めてベッドを共にしたばかり。

彼女は彼を愛している、そして車のラジオからは同じポップスが流れてる。

そして彼女は、車の屋根に登って踊りだすんだ。彼は今、彼女のことを心配している!

彼女は美しくて、まるで彼の娘と同じような顔の表情をしている。

実際のところ、彼が彼女のことを好きなのはそのためなのかもしれない

彼は、その瞬間を、かつての恋人のダンスを、ただ思い出しているわけじゃない。
実際にそこにいるんだ。彼はその二つの瞬間に、同時にいる。
まさにこうして、彼の人生の全てはそれ自体の中に畳み込まれていて、時間という概念はまやかしである、ということは彼にとっては明らかなんだ。

つまりそうやって全てはいつも同時に起きているんだ、それぞれの瞬間に内包される瞬間は(独立した)別の瞬間であって、すべては同時に起こっているんだ。」


The story, the idea is that...there's this guy. Right? And...he's totally depressed.
I mean, his great dream was to be a lover, an adventurer, you know, riding motorcycles through South America,and instead he's sitting at a marble table, eating lobster, and he's got a good job and a beautiful wife, right?
But you know, everything that he needs.
But that doesn't matter, 'cause what he wants is to fight for meaning.
You know, happiness is in the doing, right, not in the... getting what you want.

So, he's sitting there, and just at that second, his little five year old daughter hops up on the table. 
And he knows that she should get down 'cause she could get hurt, but she's dancing to this pop song, in a summer dress.
And he looks down, and all of a sudden, uh, he is sixteen. 
And...his high school sweetheart is dropping him off, at home.
And they've just lost their virginity, and she loves him, and the same song is playing on the car radio, and she climbs up and starts dancing on the roof of the car.
And now, now he's worried about her! 
And she’s beautiful, with a...a facial expression just like his daughter‘s.
In fact, you know, maybe that's why he even likes her. 

You see, he knows he's not remembering this dance, he's there.
He's there in both moments simultaneously. 
And just like for an instance (snaps his fingers), all his life is just folding in on itself and it's obvious to him that time is a lie...(Jesse motions to his right, and sees Céline standing against the wall, listening to him)uh...that's it's all happening all the time and inside every moment is another moment, all...You know, happening simultaneously.

2015年1月24日土曜日

過去も未来も今ここに

時間は過去から未来に向かって流れていく、という概念は便宜上作られたもので、本当は過去も未来も現在も全ては同時に存在しているものだと思う。

いまという瞬間にすべてが内包されている、ということ。

あまりにも色鮮やかで、過去に過ぎ去ったものだなんて思えない、そういう瞬間が無数にあってそれはすべていまこの瞬間の中で同時に起きている。

これは精神世界に興味を持つ前から感じてきたことで、ヨガや禅のあれこれを経験したり文献に親しんだり、同じような洞察を見聞きするにつれて確信を深めるようになった。


きっかけのエピソード。

20台前半のまだ何だかわけもわからず生きていた頃に、悲しくて苦しくてこんなことはとても信じられないし受け止められない、と絶望した経験があった。それは今思い出しても当時の自分を哀れに思うし我ながらよく乗り越えたなあと思う出来事だったけど、大きな分岐点だった。

打ちひしがれてどうしていいか分からずに一心に自分に問いかけ続けて、そのなかではたと「すべては繋がっている」とか「自分は自分では知り得ないほど大きな何かの一部で、失くすものは何もない」とかいった感覚に気がついた。

いま思えば、あれは他にどうすることも出来ないほど追い詰められてはじめて自分の内側を真っ向から見つめ続けた、たぶん今世ではじめての瞑想で祈りだったな。

で、そのときに、慈愛に満ちた眼差しというか「大丈夫」という意識に見守られているのを感じた。

ああ、これが神様かと思ったのを覚えてる。自分がいま感じていることすべてを完全に共有してくれて、理解してくれてその上で「大丈夫」と言ってくれる存在が間違いなくいる。自分は独りじゃない、そんな気がして救われる思いがした。


その後何年も経ってから、そのときの自分に思いを馳せてみたことがあった。

すると奇妙な感覚に捕らわれた。

自分はこの意識を知っている、この眼差しを覚えてる、みたいな感じ。あっ、あのとき自分を見守っていたのはこれだ、と瞬時に理解した。理屈じゃない確信があった。なんだ、神様とかだと思ってたけど私だったのか、と思った。

以来、過去の辛かった瞬間には積極的に思いを馳せるようになった。全力で哀れんで、「でも大丈夫!!」と全力で応援する。笑

何事も遅過ぎることはなくて、今からでも過去は癒せるはずだから。意識を向ければ、それはきっと届く。同じように、いま心を澄ませば、どこからか時空を超えて向けられている自分を慈しむ目線にきっと出会える。


「過ぎ去った過去」も、「まだ見ぬ未来」も、すべては今この瞬間に同時に存在している。その上で、人は自分が見たいように見たいものを見ている。

どこに視点をおいて何に意識を向けるのか、それだけのこと。

そんな風に思ってます。


2015年1月22日木曜日

スプタと前屈とバンダ

今朝ついに。スプタクルマーサナで脚がかかったー!というかかけてもらった。

まさかかかってるのか?!と信じられなかったけど、両足が確かに交差していた。
目を疑った、と言いたいところだけど自分じゃ見えないから自分自身に押しつぶされてムギューっとなりながら自分を疑った。


信じられないってだって私のスプタの遠さといったらこんなイメージだったので



手を掴んだまま足をかけるなんて夢のまた夢、アジャストされてできたとしても3年後くらいかしら、なんて思っていたのです。なのでホント驚いた。


案の定ハムストリングスが未だかつてないほど伸長してブチっと切れるかと思った。
そして自分で自分を背負ってる状態はあっちこっちに負荷がかかって軽く混乱した。ていうか重いよ、自分。


スプタと前屈については先日あーだこーだと考えていたところだったのでとってもタイムリー。

前屈への意識を変えたから足がかかるに至ったのか、それとも、じわじわと進行していた体の変化が一定のところまできていることを意識がキャッチしたため考察に至ったのか。

まあ、身体と意識は連動するのでどっちもなんだろうけど。個人的にこの「身体が先か意識が先か問題」はとても面白く感じます。記憶や感情はどこに蓄積されるのか?とかね。

話がそれました。

前屈は先日朝練仲間とのアーサナ談義でも話題になったのだけどそこで私が初耳だったのが

「前屈でバンダを使う」


うーん、前屈でバンダ。考えたことなかったよ。後屈ではドロップバックで腰を痛めた時に某代行先生に「バンダで腰を守れ」という謎の助言をされて以来いつも意識してきたけど。

アシュタンガとかアイアンガーでは当たり前なのかな。私にとっては思いもよらなかったのでやたら感心してしまって最近意識しているのだけど、原理がイマイチよく分からない。バンダというか腹筋群を使って腰を立てた状態で前屈する、それによって股関節からしっかり深く前屈ができる、ということ?

しかもマイバンダさんはいまだ特定不能なので「よく分かんないけど意識してみる」というだけ。目にみえない領域はそれしかできないよね。

なので感覚でしかないのだけど、今日スプタで初めて自分に潰されそうになって何となくバンダの重要性を感じた。スプタに始まる「頭に脚をかける系」ではバンダで脊椎にかかる負荷を減らす、というのもありそう。

あー、バンダを操れる女になりたい。

ところでオーラとかエネルギーとかが見える人ってバンダも見えるんだろうか。

2015年1月20日火曜日

やらかした新月

はじまり感満載であった朔旦冬至の新月から早一ヶ月。

ついにやらかした。

ムーンデーを完全に失念していて朝5時に起きてシャラへ向かってしまった。
幸い、飯田橋の駅で気づいたのでそのまま会社へ向かったけど(6時半出社)orz

会社で迎える朝日は美しかった…

まったく何をやっているんだか。

連日色んなことで頭がいっぱいで完全に忘れてたよ。いや、頭がいっぱいという表現は適切ではないかも。

ここしばらく特に年が明けてからすごく変な感じで、何というか、どんどん移り変わっていく世界から取り残されていくような、ずっと先延ばしにしてきた何か大切なことを始めなきゃいけないような、「で、アナタはどうするの?」という問いを強烈に突きつけられているような、もういい加減に時間切れです!!とそろそろ後ろから蹴りを入れられそうな、
なんだかそんな妙な感じがしています。

で、そういうことに向き合いたくないからわざとタスク的な仕事や現実的なことで自分を忙しくしているような、瞑想的な時間や坐禅をずっと避けているような、そんな感じ。現実逃避ならぬ現実への逃避。


「で、あなたは何をしたいんですか?」
「で、あなたはどうなりたいんですか?」
「で、どのようにそれに取り組むつもりですか?」

うーん。見直しのときか。



2015年1月13日火曜日

ツギハギな人生

Happy Tuesday! 

なんか、ほころびだらけのヒビだらけ、ぎこちなくて不格好で継ぎ合わせのパッチワークみたいではあるけれど、それでもこうしてちゃんと自分の世界があるというのは何て素敵なことなんだろうかと。何はなくても、これ以上何もいらない、と思ったりする。

“ Perfection is everywhere if we only choose to recognise it.” ― Kakuzō Okakura.





2015年1月11日日曜日

スプタと前屈とエゴ

プライマリーのアーサナ群はほぼ完成形で出来るようになってるけど、依然として全然ダメなのがある。

名付けて「身も心も自分の内側に引きこもるのポーズ」スプタクルマーサナ。

自分じゃ手がとれないどころか、足組めないどころか、アジャストされても足先もつかないレベル。

人並み外れて手足が短いので(ダンダーサナで指先しかつかない)体型的に無理があるということにして開き直ってた。

が、よく考えたらその他の「私の手の長さじゃ絶対無理!」と思ったアーサナ、マリーチCDやパシャーサナは出来てるではないか!手首を掴んでるし我ながらかなり深く入れてると思う。

これは体型的に難しいと思ったからこそ、それをカバーするためにより深く胸と胸の後ろ側を開くように意識的に練習してきた結果で、しかもそれは副産物的に後屈強化に繋がった。

人は骨格も性質も能力も何もかも皆違う。アレが出来る人はコレができなかったり、柔らかい人は痛めやすかったり、力があってもそれが硬さになっていたり。面白いですね。ドラクエとかのステータスみたい。

自分を知った上で弱点をどう克服するか。弱みは強みに転換しうる。

ということで、スプタだけいつまでも手の短さを理由に「どーせ出来ないからどうでもいい」という態度をとるのは改めようかと。手足の短さをカバーしうる何か、まだ未発達or未解放ののびしろ部分はどこかしら、と考えてみた。

スプタは股関節と臀部とハムストリングスがあやしいですね。股関節と臀部はバッダコナーサナをこよなく愛する私はかなり柔らかいつもり。なのでそんなに伸びしろなさそう。

従って、ハムストリングスが攻略ポイントくさい。

そういえば前に先生とスプタの話をしてたときに「ゆみちゃんは前屈が苦手でしょ」と言われたっけ。

そういえば前屈苦手だった。朝練生活で大分柔らかくなったけど、以前はパスチモッターナーサナで二つ折りになるなんて考えられないくらい元々前屈苦手なんだった。

で、話がいきなりぶっとびますが、最近自分の高慢ちきぶりが目について、どうして私は黙ってても高圧的なエラそうな感じになってしまうんだろうと考えることがあった。

何だかこれは前屈と関係ありそう。

前に頸椎症を軽く患って、その改善の為に練習中も日常生活でも頸椎後屈を控えて顎を常に引き気味にして過ごしてた時期があった。そのときに、随分とつつましい気持ちになったことを思い出した。

顎を引くだけでこんなに心の状態が変わるのか!と驚いた。つまり、どんだけ普段の姿勢が顎を上げたエラそうなものなのか、というのも自覚して愕然とした。

人の優位に立ってるような意識がどこかにあって、それが無意識に姿勢に現れてるとしか考えられない。きゃーやだやだ。そりゃ態度でかいとか言われるよ。

思えば、私は高慢ちきな部分がある一方で献身・奉仕への強い衝動があって、あらゆる行動の強い動機になってる。この相反を不思議に思ったりしてた。

多分、本質的に傲慢で自分本位な要素が強いから、それを補うというかバランスを取るために自分を捧げる対象が必要なのではないかしら。

無意識に陰陽のバランスを取ってるかんじ?


そんなわけで


高慢なエゴがゆるやかに解放されるにつれ、前屈がより深まるかもしれない。and vice versa.

後屈が怖れの克服なら、前屈はエゴの解放。

つくづく思う。私達が汗だくになってマットの上で身体を通して取り組んでるのは、生き方そのものなのだと。

 
ちなみに、この手の洞察の大家グレゴール・メーレ先生の「実践と探求」を見てみたら、スプタのところで脚を頭に持ってくるポーズ群の重要性に言及していわく

"謙遜の気持ちが増し高慢な気持ちが減少する" 

やっぱりねー。今の自分の高慢なエゴを認めて解放していかないと、脚を頭にかけるシリーズは厳しいだろうな。

と、スプタ考から前屈とエゴの考察に発展したんでありました。


亀とサギ@日比谷公園。

スプタクールマーサナとクラウンチャーサナ (^ν^)

2015年1月8日木曜日

会社

仕事が世俗と自分を繋ぐ唯一のものになりつつある。

で、年明けに年末年始休暇からまた復帰して、激しい違和感を感じてやたらとしんどかった。なんですかここは戦場ですか。

もうほんと私はこのまま蒸発してあらゆる場所に偏在する空気になりたい、サムサーラのハーラハラから自由になりたいなどという気持ちを抑えつつなんとか適応を試みること数日。

あー。やっぱりここで学ぶことがまだまだスゴイあるなあと思った。仕事やビジネスの何たら以前に、自分の人としての在り方とか物事や人への向き合い方とかね。わたしの涅槃は遠い。残念ながらorz 

上司や仕事仲間たち、この人たちはほんとインド人と見せかけて本当は神様なんじゃないのとか思います。

マイワンダフルクライアント様たちも。

「会う社」と書いて会社、なるほどね。現世に降臨した神様たちに会う場所とは言い得て妙。参拝だと思えば通勤のストレスが減るかも。

そういえば英語ではカンパニーだけど、companyて英語だと会社の他に「連れ、同伴者、一緒にいる状態」の意味でよく使いますね。companionがラテン語で"パンを一緒に食べる"が語源だとか。

パンは食パンやアンパンマンのパンに限らずもっと広く食事や食べることそのものを意味したりする。

食事という根源的な営みを、生活の糧を分かち合う共同体。そこから会社をカンパニーと呼ぶようになったのかな。あらやだ素敵。

終身雇用とか社員は家族とかそういう考え方が完全に過去のものになった今、「会社は結局守ってくれない」とか嘆きがちだけどまあそれは実際そうなんだけれども、逆に自分に合った環境をいくらでも選べるし創り出せる、より自由な社会になったとも言えるのではないかな。

会社を自分を写す鏡が祀られた社、神様に会う場所とみるのか、パンを分け合う共同体とみるのか、いいように人を利用する冷たい組織とみるのか、熾烈な戦場とみるのか、それも自由だよねと思ったりした。



ちなみに

Thank you for your company, 一緒にいてくれて、付き合ってくれてありがとうって良いフレーズよね。

物理的に時空を共にすること、「一緒にいる」という状態は、決して当たり前のことではないわけです。

( 出典:「ともにパンを食べる仲間」英語の company(会社)の語源
http://www.quicktranslate.com/blog/2013/12/「ともにパンを食べる仲間」英語の-company(会社)

2015年1月6日火曜日

ラグバジュラーサナ考(2) life lesson的なこと

ラグバジュラーサナ5か月目。初夢は所詮は夢だった模様、全然たてませんー。ていうか、ラグバジュラーサナで頭が爪先に着くわけないじゃん。

でも今日は初めて頭を着けてから上がってこれた!3回やってみたら3回とも上がれたざんす。但しワンタッチに限る。着地して5呼吸するともうダメ、まるで頭がマットにめりこんでしまったかのように上がれずじまい。

まあそれでも大きな進歩という事で。

ヨガの練習の面白いところは、向き合うべき自分の課題がマットの上と外とで見事なシンクロとともに展開されこと。ですよね、ヨガ実践者のみなさん。

私の場合、たとえば、ドロップバック&カムアップの練習では「胸を開く」という課題をめぐる極めて個人的なドラマがマットの上と外で並行・相関しながら繰り広げられてとても興味深かった。(渦中は超辛かった)

前に進めないときは、そこで取り組むべき、クリアすべき課題がある。投げ出してそこから逃げたりすっ飛ばして先に進んだところで、違う場所でまた同じ課題を突き付けられる。アシュタンガの練習も人生全般でもこれは同じこと。

で、4か月止まっているラグバジュラーサナについて。これまた極めて個人的な話でしかも長いのであしからず。
(・ω・)ノ


だいぶいい感じなってきたんだけどなあ。着地してスグにならそこから上がれるのになあ。頭が完全に着地したら最後、丸っきり上がらないのは何でかしら。

ぼんやり考えてたら、禅の旅でご一緒した先輩アシュタンギ達のコメントを思い出した。

kさん:「頭に磁石がついてるみたいに頭が地面から離れなかった」
nさん:「頭が上がらないのはシヴァに頭を踏みつけられてる状態。足を離してもらった瞬間にアップできる」(なんじゃそりゃー)

そうそう、そういえば、皆頭がくっついて離れないって言ってたなあ。

くっついて離れない。くっついちゃって離れない。くっついちゃう。。。

なんか、前にもくっつき問題について考えたことがある気がする。。

そこでふと、2年位前まだ朝練を始める前の一時期、思い悩んだテーマを思い出した。

To be attached or not to be, that is the question. 
くっつくのかくっつかないのか、(執着あるいは愛着を持つのか、持たないのか)それが問題だ。


背景:私は元々が寂しがりやの甘ったれなもんで、くっつき願望あるいは何かに溶け込んでひとつになりたい、みたいな深いところでの融合や帰属への切望が強いのだと思う。あと全てにおいて100か0かみたいな極端なところがあるので、これだと決めたらストーカーばりの一途さで尽くし倒す傾向がある。

しかし常なる無常のこの世の中でそういう生き方をしてると辛い思いをする。そんで私もその例にもれず、仕事だ人だに思い入れてはその対象があっさり消え去る度にひどく打ちひしがれてきた。世の儚さとデタラメさにほとほと嫌気がさしていた。(今なら分かる、天の采配はデタラメどころか完璧なのだと)

仕事や他人や何かに自分を明け渡して、その「場」や関係性が消滅したときに抜け殻みたいになるのはもう嫌だった。もう二度と、何にも誰にも必要以上に思い入れるまい、と自分に言い聞かせてた。でも同時にそうして線を引くことが寂しくもあり、違和感があった。

そもそも、attachment(執着あるいは愛着)を切り捨てる・遠ざけるというのは、情熱を捨てることとイコールではないの?それって、無関心というのではないの?愛着を持たないって、それって人間として生きる意味なくない?

あらゆるものに慈愛を持ちながら、それでも必要以上に愛着を持たずに「いつでも手放せる」状態でいる、そんなこと出来るのか?どうやって?いや簡単に言うけどさ特にヨガの先生とか「感謝して卒業、手放しましょう…」とか、何ですかそれは実際そんな簡単に綺麗にいかないんですけどそれは私が弱いから?つーかそんなの実践できてる人はただ単に元々情が薄いんじゃないの?...

などと結構まじめに思い悩んだわけです。中庸であることの大切さは頭では分かってたけど実践は難しかった。仕事や対人関係でどこまでコミットすべきなのか、距離をとるべきなのか態度を決めかねて葛藤してた。

そのとき、ふとマイMac bookちゃんを見て、こういう感じで


ちゃんとくっつくけど、脱着はスムーズ!瞬時に分離可能。みたいな形状を羨ましく思った。

変な連想だけど、自分もこうありたいと願った。コミットした対象から自分自身を引き離すときが来た時、スルリと分離可能なかんじ。心や身体がちぎられるような思いはもうしたくなかった。

ちなみにこの「もう誰にも何にも振り回されたくない」という強い思いは、ずっと先延ばしにしてきた朝練をついに始める最後の一押しとなった。


その後朝練や仕事や私生活でただひたすらすべきことを実践する中で、幾度かの大きなカタルシスを経て、結局自分を明け渡してナンボの境地に至った。愛着と非執着のバランスはよくわからないまま、いつのまにかどうでもよくなって考えるのをやめた。

そうそれでラグバジュラーサナのくっつき問題。

頭が床にくっついても、脚はずっとエンゲージしてないといけない。いつでも自力で上がってこれる強さを保ったまま自分で降りる。
Going down without not really going down , とキノ姫が件の動画の中で言っているけど、落ちずに降りるというか、降りるけど、落ちない、というか。これは相当な強さを要する(太ももの)

で、これはあくまで太もものフィジカルな話なんだけど、何だか私はかつて悩んだattachment問題への一つの答えが時を超えて差し出されたような気がした。 

強さ。

落ちるのではなくて、降りる。くっつく。降りてくっついても、よっかからない。いつでもそこから離れて容易に上がってこれるだけの強さが内側にある。

やっぱり、執着しないことと無関心でいることは違う。瞬間瞬間、目の前のことに全力でエンゲージしたらいい。したくなければしなくてもいい。すべてを手放しても自力で立てる強さがきっと自分には備わってる。*

...

....

ラグバジュラーサナは立てないけど


2015年1月2日金曜日

冬牡丹

"咲くことを恐れぬ白さ寒牡丹"
@上野東照宮ぼたん苑




2015年1月1日木曜日

あけましておめでとうございます

わーんブログ放置してしまた
もうこのまま隠居して森に入りたい。
まだだめですね。



みんなが自由で幸せいっぱいな素敵な年になりますように!!

みなさまもお正月ゆっくり休んで充電なすってくださいまし


マイ初夢はシャラで練習しててラグバジュラーサナで立てるようになる夢でした。頭が足の爪先につくほど深い後屈状態で着地したら、びよーんと自動的な感じで上がれました。夢だけど(^ν^)ふひひ