ラグバジュラーサナ5か月目。初夢は所詮は夢だった模様、全然たてませんー。ていうか、ラグバジュラーサナで頭が爪先に着くわけないじゃん。
でも今日は初めて頭を着けてから上がってこれた!3回やってみたら3回とも上がれたざんす。但しワンタッチに限る。着地して5呼吸するともうダメ、まるで頭がマットにめりこんでしまったかのように上がれずじまい。
まあそれでも大きな進歩という事で。
私の場合、たとえば、ドロップバック&カムアップの練習では「胸を開く」という課題をめぐる極めて個人的なドラマがマットの上と外で並行・相関しながら繰り広げられてとても興味深かった。(渦中は超辛かった)
前に進めないときは、そこで取り組むべき、クリアすべき課題がある。投げ出してそこから逃げたりすっ飛ばして先に進んだところで、違う場所でまた同じ課題を突き付けられる。アシュタンガの練習も人生全般でもこれは同じこと。
で、4か月止まっているラグバジュラーサナについて。これまた極めて個人的な話でしかも長いのであしからず。
(・ω・)ノ
だいぶいい感じなってきたんだけどなあ。着地してスグにならそこから上がれるのになあ。頭が完全に着地したら最後、丸っきり上がらないのは何でかしら。
ぼんやり考えてたら、禅の旅でご一緒した先輩アシュタンギ達のコメントを思い出した。
kさん:「頭に磁石がついてるみたいに頭が地面から離れなかった」
nさん:「頭が上がらないのはシヴァに頭を踏みつけられてる状態。足を離してもらった瞬間にアップできる」(なんじゃそりゃー)
そうそう、そういえば、皆頭がくっついて離れないって言ってたなあ。
くっついて離れない。くっついちゃって離れない。くっついちゃう。。。
なんか、前にもくっつき問題について考えたことがある気がする。。
そこでふと、2年位前まだ朝練を始める前の一時期、思い悩んだテーマを思い出した。
To
be attached or not to be, that is the question.
くっつくのかくっつかないのか、(執着あるいは愛着を持つのか、持たないのか)それが問題だ。
背景:私は元々が寂しがりやの甘ったれなもんで、くっつき願望あるいは何かに溶け込んでひとつになりたい、みたいな深いところでの融合や帰属への切望が強いのだと思う。あと全てにおいて100か0かみたいな極端なところがあるので、これだと決めたらストーカーばりの一途さで尽くし倒す傾向がある。
しかし常なる無常のこの世の中でそういう生き方をしてると辛い思いをする。そんで私もその例にもれず、仕事だ人だに思い入れてはその対象があっさり消え去る度にひどく打ちひしがれてきた。世の儚さとデタラメさにほとほと嫌気がさしていた。(今なら分かる、天の采配はデタラメどころか完璧なのだと)
仕事や他人や何かに自分を明け渡して、その「場」や関係性が消滅したときに抜け殻みたいになるのはもう嫌だった。もう二度と、何にも誰にも必要以上に思い入れるまい、と自分に言い聞かせてた。でも同時にそうして線を引くことが寂しくもあり、違和感があった。
そもそも、attachment(執着あるいは愛着)を切り捨てる・遠ざけるというのは、情熱を捨てることとイコールではないの?それって、無関心というのではないの?愛着を持たないって、それって人間として生きる意味なくない?
あらゆるものに慈愛を持ちながら、それでも必要以上に愛着を持たずに「いつでも手放せる」状態でいる、そんなこと出来るのか?どうやって?いや簡単に言うけどさ特にヨガの先生とか「感謝して卒業、手放しましょう…」とか、何ですかそれは実際そんな簡単に綺麗にいかないんですけどそれは私が弱いから?つーかそんなの実践できてる人はただ単に元々情が薄いんじゃないの?...
などと結構まじめに思い悩んだわけです。中庸であることの大切さは頭では分かってたけど実践は難しかった。仕事や対人関係でどこまでコミットすべきなのか、距離をとるべきなのか態度を決めかねて葛藤してた。
そのとき、ふとマイMac bookちゃんを見て、こういう感じで
ちゃんとくっつくけど、脱着はスムーズ!瞬時に分離可能。みたいな形状を羨ましく思った。
変な連想だけど、自分もこうありたいと願った。コミットした対象から自分自身を引き離すときが来た時、スルリと分離可能なかんじ。心や身体がちぎられるような思いはもうしたくなかった。
ちなみにこの「もう誰にも何にも振り回されたくない」という強い思いは、ずっと先延ばしにしてきた朝練をついに始める最後の一押しとなった。
その後朝練や仕事や私生活でただひたすらすべきことを実践する中で、幾度かの大きなカタルシスを経て、結局自分を明け渡してナンボの境地に至った。愛着と非執着のバランスはよくわからないまま、いつのまにかどうでもよくなって考えるのをやめた。
そうそれでラグバジュラーサナのくっつき問題。
頭が床にくっついても、脚はずっとエンゲージしてないといけない。いつでも自力で上がってこれる強さを保ったまま自分で降りる。
Going down without not really going down , とキノ姫が件の動画の中で言っているけど、落ちずに降りるというか、降りるけど、落ちない、というか。これは相当な強さを要する(太ももの)
で、これはあくまで太もものフィジカルな話なんだけど、何だか私はかつて悩んだattachment問題への一つの答えが時を超えて差し出されたような気がした。
強さ。
落ちるのではなくて、降りる。くっつく。降りてくっついても、よっかからない。いつでもそこから離れて容易に上がってこれるだけの強さが内側にある。
やっぱり、執着しないことと無関心でいることは違う。瞬間瞬間、目の前のことに全力でエンゲージしたらいい。したくなければしなくてもいい。すべてを手放しても自力で立てる強さがきっと自分には備わってる。*
...
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ラグバジュラーサナは立てないけど

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