2015年1月28日水曜日

自己責任と「夜と霧」

ソーシャルメディアの台頭で、世界中の人々のリアルな声がリアルタイムで確認できる時代になって、ブログメディアだったりソーシャルプラグインだったり、望まずとも勝手に人々のコメントが流れ込んでくるようになった。

人の思いは瞬時に世界を駆け巡り、共鳴し繋がって増幅して大きなうねりになる。
それは個人をいじめ殺すこともあれば、世界に広がる大きな祈りの輪にもなることもある。
集合意識が可視化されたみたいで、圧倒される。

最近はイスラム国の日本人拘束事件に対する反応が気になって、人質になった二人について、いわゆる自己責任論、自業自得だろ的なコメントや貶めるコメントも沢山見かけて違和感を感じた。


それはさ、確かに自業自得の自己責任ですよ。
どんなことも、自分の世界で起きるすべては自分の責任ですよ。万物は意識の反映ですからね。

でもね。だからといって自業自得で窮地に陥ったひとは救済に値しない、といことにはならない。
自己責任と、そこに他者がどう関わっていくか、ということは全くもって別問題でしょう。

自己責任だから助けなくていい、思いやる必要はない、貶めてもいい、という理屈だったら見捨てられる人だらけになる。どこからが救えない馬鹿で、どこからが救える馬鹿なんでしょうか。

自己責任の自業自得、そんなことは私達全員に共通の前提であって、その上でお互いに助け合い補い合うのが生命として自然な姿でしょう。

自分はどう在るのか、どうするのか、それがすべてであって、相手が、状況が、人様がどうだろうが関係ない。

自分の責任の問題を人の責任にすり替えちゃいけない。これは自戒をこめて書いてます。

そんなことを思っていたらV.E.フランクルの「夜と霧」の中のことばを思い出した。
「夜と霧」は心理学者である著者が強制収容所での体験を書いた本。
史上最悪の地獄のような境遇のなかで、「人生に意味をもはや何も期待できない」と絶望していく人たちにフランクルはこう答えた。


ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。

すなわち人生から何を我々はまだ期待できるのかが問題ではなくて、
むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。 

すなわち我々が人生の意味を問うのではなくて、
我々自身が問われたものとして体験するのである。
人生は我々に毎日毎時問いを提出し、我々はその問いに、口先や詮索ではなくて、正しい行為によって応答せねばならないのである。

人生とは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。



折しも先日はアウシュビッツ解放70年だったらしい。
もう、人が人を傷つけ苦しめるようなことは終わりにしないと。
怒りや支配や恐怖の為に戦わないと、誓わないと。追悼にならないよ。

苦しい状況におかれた全ての人が早く自由になりますように、
痛みや悲しみが早く癒えますように
犠牲になったかたには安らかなご冥福を

お祈り申し上げます。

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