2014年8月31日日曜日

必要な出会いについて

ひとは本当に自分に必要なものを知っている。
普段は気づいてなくても、出会うそのときが来ると一片の迷いもなくそれを選び取る。

その時はわけが分からなかったとしても、後から振り返ると仕組まれたとしか思えないほど、完璧な帰結がある。

私が初めてマイソールクラスに参加したのは2012年の5月。
出張先のムンバイのシャラだった。
それまで、大手スタジオで定期的にハーフレッドのクラスを受けていて「もっとアシュタンガをやり込みたい」「もっとヨガを深めたい」と思っていたところに、インド本社の同僚が連れて行ってくれたのだ。

レッドとは全然違う、初マイソールは感動体験だった。自分に丁寧に向き合う感じ、自分に全ての意識を向ける感じがレッドオンリーの練習では得た事のない感覚だった。

で、東京に戻ったらすぐに朝練マイソールを始めようと決意するわけだけど、固く決意したわりに全然シャラを決められない。これからずっと、毎日通う場所なのだと思うと余計に迷う。

絶対タリックかクランティがいい!でもどっちもいい!決められない!でもどっちも通勤的に微妙!IYC九段下?飯田橋?でもどっちも情報が少なくていまいちわからない!やっぱりタリックかクランティ!でも決められない!やっぱり千代田区か文京区で。。。以下ループ。

ドロップインにいけばいいんだけど、両方試して比較検討する、みたいなことは意味がない気がした。
どっちも受けたら大好きになってしまって、結局最初に受けた方に即決してもう一方を試そうと思えなくなるであろう確信があった。


そんなこんなで半年が過ぎ、11月。
偶然再会を果たした小学校の同級生が同じくアシュタンガに傾倒していて、マイソールを始めるのだという。
彼女は吉川めい先生のvedaの説明会?に一緒に行こうと誘ってくれた。ここでまた悩む。
だって、めい先生も例にもれず会ったら好きになって即決してしまうに決まってる。
見学やドロップインイコール決断になると分かっていたからこそ無駄に悩む。

それでも、このタイミング。
10年以上ぶりに偶然再会した同級生が、偶然にも同じくマイソールを始めようとしていて見学に誘ってくれた。運命を感じたし、めい先生のような女性的なビューティーは自分に欠けてるものだし。。。とかあれこれ理由をつけて、見学にいく決心をした。

が、結局当日になってまさかの体調不良。どうしても無理に行く気になれず結局行かなかったのだ。

そんなこんなで年を越し、2013年1月末。
ついにいてもたってもいられなくなる。
「いつまでぐだぐだ考えて先延ばしにする気??!もうどうだっていい!もう決める!」と猛烈な勢いでネットで改めてマイソール検索をしていたときに、11月にオープンしていた今のシャラを見つけてその1分後には先生にメールをしていた。


先生にこの話をかいつまんでした時に、「ここを待っててくれたんだね」と言ってくれた。
ああ、確かにそうかもしれないなと思った。

私に必要だったのは、2012年の夏に朝練を始めることじゃなくて、このシャラでこの先生のところで朝練を始めることだったのだろうなと。

本当に必要な出会いのために、その時々で自分が欲するものとギャップやタイムラグが発生することはよくあること。

タリック先生は出張先でマイソールを受ける機会に恵まれたし、クランティとめい先生はシャラートのWSで会った。会ってみて、自分は正しかったと思った。
きらきらしてて、一目見て大好きになったもの。ドロップインや見学に行ってたら、絶対に即決してたね。そういう素敵な未来もあったんだと思う。

それでも、やっぱり、今ここにいることを選んで良かったと思う。
半年以上待っても、遠回りしても。
やっぱり、来るべき場所はここだったと、思うのです。

(クランティも受けてみたいけど!)



2014年8月29日金曜日

バックベンドと弓と禅

もともと腰が柔らかいせいで、ドロップバック&カムアップでは腰の痛みに苦しんだ。ぐにゃりと曲がってしまうだけに、腰の一点に負荷をかけて痛めてしまうのだ。

バックベンドは腰を曲げるのではない。胸を開いて足や腹筋や大腰筋や背筋を総動員して、柔らかい腰を守りながら体を開く。

それが出来るようになるまでは毎日腰が痛くて辛かった。特にカムアップは一度でも立てない日をつくると二度と立てなくなる気がして怖くて、無理な練習を重ねていた。

焦りや怖れで余分な力が入り体が硬くなり、腰に負担がかかり、痛みがまた怖れを上塗りする。

怖れや痛みが根っこにある練習は、こうして更なる怖れと痛みの印象を生み出し強化して負のスパイラルに陥る。経験に伴う印象が、体や心に刷り込まれていく。サムスカーラの罠。

執着していた。柔らかさで形だけ出来てしまうだけに、得意になっていた。いい気になっていたから、できなくなることが怖かった。

ヨガの練習で体を痛めて、怖れのサムスカーラを積み重ねるなんて本末転倒も甚だしい。

アップドックさえも辛くてたまらくなって、ついにそれを認めた。ウルドヴァ・ダヌラーサナが気持ち良くできるようになるまで、と決めて立つ練習は潔く辞めた。二度と立てなくても別にいいんだと思ったら随分気が楽になった。(それだけ思い詰めてた)

そんな時にちょうど読んだのがオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」。ドイツ人の哲学者である著者が弓の師範の元で禅の真髄を学ぶ話なのだけれど、これがもうまんまヨガなのです。

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その時師範は声を大にして言い放った。
「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようと努力すれば努力するほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意図的な意思を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。
あなたは、意思の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね。」

中略

「....我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊るしていると。もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞れがあります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙が決定的になり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。

(これって完全にドロップバック&カムアップのことではないか????!! 天に開きつながり、地に足を突き刺し、天から大地を吊るす絹糸となる。意図を持つもの、無理をするものは天地から切り離され救われない中間に取り残される。この表現。天地の間に取り残され途方に暮れる感じ。天にも胸を開けない、地にも足をねじ込めない。バックベンドに苦しんだことのある人なら共感するのではないかしら??)

「では私は何をすればよいのでしょう」私は思案しながら尋ねた。
「あなたは正しく待つことを習得せねばなりません。」
「しかしどのようにしてそれが習得されるのでしょうか。」

「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何も残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨て去ることによってです。」
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Backbending けむし。

その後、腰を痛めずにバックベンドが出来るようになって安定してきてからも、一喜一憂したくなるエゴを日々戒める。形だけ出来たって仕方ないのだ。天と地の間に取り残されては。

ちなみに、「弓と禅」はアシュタンガ練習生には心に刺さる珠玉のことばがこの他にも沢山あるので、強くお勧めしたい本です。

天邪鬼な私は「スティーブ・ジョブズ愛読書!」という帯が気に入らなくて購入を数年間見合わせてたけど、素晴らしい名著でございました。
さすがスティーブ・ジョブズ愛読書。


2014年8月27日水曜日

シャラバーサナとドリシュティ

バッタのポーズ、シャラバーサナ。



アシュタンガのシークエンスは

腕を床に降ろしたA
コブラ風に手を着いて胸を開いてB
最後にアップドッグ

地味にきつい後屈のポーズ。
背筋と胸筋と腹筋と大腰筋とハムストリングと大腿四頭筋とあとふくらはぎも全て総動員、オールスターな感じでたまらない。

コブラ風のBからそのまま手で床を押してアップドッグに入るときには上に伸びて伸びて後屈が深く入って、まさにビョーンと飛ぶバッタの気分。

ドリシュティは鼻先。この後にベカアサナ、ダヌラーサナ、パールシュヴァ・ダヌラーサナと続く鼻先ドリシュティ+後屈シリーズの最初のポーズでもある。

練習のなかで、集中状態になるためのツールとしてのドリシュティの重要さは日々感じる。

視覚はあらゆる感覚のなかでも生活の中で依存度が高く、散漫になりがちな感覚ではなかろうか。

ただでさえあっちゃこっちゃに飛び回りがちな思考は、視線が捉えたものにすぐ反応する。

思考があっちゃこっちゃに旅に出てしまって、目の前のものが見えてるつもりで見えてなかったりすることがままある。

だからこそのドリシュティ。視点を集中させると意識状態は随分変わってくる。

なかでも、この鼻先ドリシュティは特に強力な気がする。どうかなー。

2014年8月26日火曜日

土門拳記念館

山形旅行記のつづき。

出羽三山参拝のあと肘折温泉に一泊、翌日は酒田市観光。
土門拳記念館へ行った。





一番足を止めてしまったのは、土門拳賞受賞の桑原史成さんという報道写真家の写真展だった。
半世紀に渡り水俣病患者を捉えた通史。重い。生き地獄のような惨禍を生きたひとたちの記録。

母親の胎盤から水銀に侵されて生まれてきた、ある胎児性の患者とその家族の写真が忘れられない。

明らかに重篤で目を背けたくなる姿の彼女だが、彼女と彼女を囲む家族は満面の笑顔。
嘘偽りない、無理も感傷も感じられない。本当に皆嬉しそうな笑顔なのだ。

説明にこんなことが書いてあった。

母親は彼女は宝子だと言っていた。
彼女が胎盤から水銀を吸いとってくれたからこそ、母親である自分は重篤にならず、後に産まれた子供たちは無事であったのだと。
彼女は自分達家族を守ってくれた大切な宝子なのだと。

写真の笑顔からは本当に、この家族がどんなに彼女を愛し、彼女がどんなに大切にされてきたかが伝わってきた。

苦しみのなかの曇りない輝き。
重量級の苦難のなかでも、あんな風に愛を持って生きられるのか。
どんな過酷な境遇を持っても決して奪うことはできない、人が本質として持つ光をみた気がした。












2014年8月25日月曜日

今日は曇り

今朝は久々に朝起きるのが辛かった。朝練行かずに寝てたかった。

胸もあまり開かないし体も重い。
そんな日もある。

そんな日は「太陽礼拝だけでいい。嫌ならいつだって辞めてもいい」愚図る自分に言い聞かせ、宥めながら練習する。

でも結局気付けば最後まで練習していて、終わった後には心地良さだけが残る。

晴れの日も雨の日も曇りの日も、どんな日も続けること。
調子が良いときも悪いときもある。
そんな自分を静かに見つめる。

そういう時間を毎日持つことは、自分のアンカーになると思う。


Happy moon day- 明日は寝れる(^o^)







2014年8月24日日曜日

I was born

子供を産んだばかりの友人に会いにいった。

今年はベビーラッシュで、他にも親しい友人が2人出産している。

昔から知っている友人達については、彼女達がどんなに子供を持つことを望んできたかは少なからず知っている。

シングル時代は結婚できるのか不安に思い、結婚してからは子供を授かるのかを不安に思い。

焦りや不安の時期を経て、念願の末に新しい生命を授かる。授かった生命を身体の中で育み、命がけで産む。
一方で赤ちゃんは親によって生命を与えられて、母の身体のなかで育まれ、母によって産まれさせられる。
泣くことと寝ることしかできない内は、つきっきりで面倒を見てもらう。
この子にとっても、やっぱり生命は授かりものだ。

ここでも与えることと受け取ることが奇跡みたいに同時に起きている。

なんだか不思議。誰が誰に生命を与えたのかしら。

I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね” 
吉野弘の散文詩、 I was born から

私達はみんな生かされている。途方もない力があちこちで働いて、産まれさせられて、生かされてきてる。
そして同時に他者を生かしている。
出産・育児のライフイベントを目の当たりにすると、その重みに改めて驚くばかり。

すごいなあ。



人生があなたに優しいものでありますように
望むものすべて受け取れますように

Merrily, merrily, merrily, merrily, 
Life is but a dream.

2014年8月23日土曜日

どうしてそんなに

皆優しくしてくれるのか 
そんなに素敵なのか 
有り難さと愛しさで胸がつぶれそうになるときがある

周りの環境や人は自分を映す鏡だというけど、そんなのは信じ難いぐらい
そんなに自分は素敵だろうか




2014年8月22日金曜日

動物アーサナ1 クラウンチャーサナ

アシュタンガのセカンドシリーズは動物の名前のアーサナが多い。

これは、セカンドを楽しみにしていた理由の一つだったのだ。

動物が好きだし、なんか楽しそうでしょ

(       ^ω^)

動物の中でも、特に鳥に興味がある。

好きというと語弊があって、ちょっと怖かったり、足とか眼とか気持ち悪く感じるのもいる。

でも、とにかく鳥全般に心が惹かれる。

中でもお気に入りなのはサギ類。あの優雅でとぼけた立ち姿が好き。

鷺のアーサナとかあったらいいなーと思ってたら、あった!!!

セカンドの二つ目で登場するクラウンチャアーサナ。

パシャーサナの次にこれに進んだときはテンションあがったね。

毎回、心はサギ類。水田で、河川で、池で瞑想的に佇むサギ気分。



毎朝楽しみなアーサナのひとつ。

今朝は金曜なのでフルプライマリーのみ。早くサギやりたいなあ。


2014年8月21日木曜日

与えることと受け取ること

与えることと受け取ることは同時に起きる。一方通行にはなりえない。

ひとから何かを与えられてると感じたとき、同じ分だけ自分も相手に何かを与えてる。

誰かに献身するとき、自分は相手からは献身する喜びを与えられている。  

ひとは本質的に、他者に尽くすことで深く満たされるのだと思う。

仕事の関係のなかでそれをしみじみ実感することが多い。

対価のお金以上のものを受け取っている。どこか深いところで、救われることすらある。

Give and takeではなくて、どこまでいってもgive and giveの循環。

今日も頑張ろう。
朝練はシャラが休みなのでお休み。



2014年8月20日水曜日

ひとが好き。

意味不明だったパールシュヴァ・ダヌラーサナ。

体の重みで上側の胸が開いてかなり気持ち良いことに気付いた。
ゴロンも楽しくなって早くもお気に入りに昇格。

明日はシャラ不定休日で朝練はお休み。
今日は神戸に日帰り出張で良い旅夢気分だったこともあり、新幹線で飲み足らず近所のこじんまりしたイタリアンに立ち寄った。

スタッフも常連客も素敵なひとばかりで、カウンター越しの会話が楽しくて一杯のつもりがつい2時間以上も居座ってしまった。


ひとり静かに自分に向き合う時間は贅沢だし、ひとと距離を取ることにも慣れてしまった。
それでもやっぱり、ひとが好き。
たまにはこういう社交も悪くない。

2014年8月19日火曜日

巡礼の旅

旅行から戻り、3日ぶりの朝練。

久しぶりの練習は大切に大切に。
聖地巡礼後の練習は丁寧に丁寧に。

旅に出ると、強く意識することがある。

人生は巡礼の旅だということ。
どこへ行っても行かなくても、何があってもなくても、誰がいてもいなくても。

見るものすべては与えられたもの。
出会うものすべては礼拝の対象。
自分のすべては、呼吸も動きもことばも思いも何もかも捧げもの。

神仏や自然や、愛するひとたちや自分自身への。

難易度の高いアーサナも太陽礼拝も、皿洗いもトイレ掃除も、歯磨きも食事も、行為のすべては等しく捧げものなのだ。

こっちよりもあっちが良いとか悪いとか、行為そのものに優劣はない。

いつでもどこでも何をするときも、神仏を拝むときと同じ態度でいるべきなのだ。

日常ではつい忘れてしまう…というか実践はなかなか難しい。

たまの旅は改めて大切なことを思い出させてくれる。

" Keep thyself as a stranger and a pilgrim upon the earth, to whom the things of the world appertain not. "

この世では、よそ者であり続け、巡礼者でありつづけなさい
- Thomas a Kempis


まるで薔薇のようなロータス。


2014年8月18日月曜日

出羽三山参拝その2

今年は羽黒山の12年に一度の御縁年とは聞いていたけど、更に特別なタイミングだったことを現地で知ることになった。



出羽三山の開祖である蜂子皇子のご尊像を祀る蜂子神社が明治以来初めてのご開帳、一般公開とのこと。

お祓いを受けてからご尊像拝観。

明治の廃仏毀釈により、出羽三山でも多くの寺や仏が焼き払われた。
仏の姿をしたこのご尊像もまたその対象になる恐れがあったため、社の奥に仕舞われ以来御扉は固く閉じられてきたのだとか。

今回実に140年ぶりの公開となった大きな理由は、東日本大震災被災地復興への願いなのだそう。

蜂子皇子は、絵では黒くて鬼みたいな顔で描かれている。文献では人々の苦悩を一心に背負ったために恐ろしい姿になったと伝えられている。
最後は本来の穏やかなお顔に戻って亡くなられたのだとか。

震災から三年。
「人々を苦悩から救ってきた蜂子皇子拝観を通じて、参拝者に被災地復興と安寧を願って欲しい」との思いから公開に踏み切ったそうだ。その説明を聞いて胸がつまった。

ご尊像は絵のようなおどろおどろしい姿ではなくて優しい顔だった。

ご開帳もさることながら、何にもまして貴くありがたいのは、ひとがひとを思いひとの安寧を願う心ではなかろうか。

羽黒山のあとは出羽三山の主峰月山へ。
標高1900m余の8合目にある湿地帯、弥陀ヶ原散策。



雲の上、空が近い。
空を映す沢山の池。
一面に広がる高山植物。
風の音。鶯の声。



この世じゃないみたいな不思議な雰囲気。

と思ったら、月山は亡くなった人の魂が集まる山として信仰されてきたそうだ。



合掌

出羽三山はそれぞれ違う魅力がある。

2014年8月17日日曜日

出羽三山参拝

昨日から山形に来ているので朝練はお休み。

まずは湯殿山参拝。
言わず語らずの霊山。

ご神域、特に手前の禊の川の空気がたまらなく好き。

ご神域は写真撮影禁止なのでもっと手前の写真だけ。




湯殿山神社の後は麓にある注連寺参拝。即身仏がいらっしゃいます。
ひたすらに衆生の安寧を願い、10年以上の厳しい行に身を捧げた仏様。
そこまで人々を愛してやまなかった仏様は、いまどんな思いで私達を見守っているだろうか。

歴史を感じる建物も、色鮮やかな天井画も素晴らしい。
ミシュランに選ばれたそうだ。



宿泊は羽黒山山門近くの宿坊エリアへ。旅館 多聞館さん



味があります。精進料理も美味しい。



夜は歩いて羽黒山の夜間参拝へ。




暗闇。
静けさ。

川のせせらぎ
虫の声
土の匂い

たまらない。
贅沢でしょ?


五重塔ライトアップ。



つづく





2014年8月15日金曜日

終戦記念日と祈り

去年は学会出張で全国色々な場所へ行った。終戦記念日の今日、広島へ行った時のことを思い出した。

仕事が終わってから、ひとり平和記念公園を散歩した。街中なのに公園のなかは不思議なくらい静かで、明らかに空気が違う。


沢山のひとが非業の死をとげた場所。原爆ドームで写真をとると、写るなんて話もある。


でも、感じたのは悲劇の地の悲惨さや無念さではなくて、聖地のような圧倒的な静謐さと清らかさだった。
不謹慎かもしれないけど、癒されるような気すらして暗くなるまで座ってた。

世界中の数え切れない人達が祈りを捧げてきた、思いを馳せてきた場所だからだと思った。
平和を誓う強い決意とか、無私の祈りとか。痛みや悲しみへ寄り添う心とか。そういうもので満ちている気がした。

祈りは決して無力ではない、むしろ集合・集中した祈りや思いの力の強さを感じた。

みんなが穏やかさと共にありますように  
自由でありますように





「祈りは無力だと思えるかもしれません。しかし祈りが無力なのではありません。祈ることを忘れた心が無力なのです。祈るだけでは何も解決しないと思えるかもしれません。そうではなくて祈りを欠いた行動が何の解決ももたらせないのです。」『祈る力』対本宗訓





2014年8月14日木曜日

新しいポーズ

セカンドに入ってから、ポーズの一つ一つに深く入り込む感じで、プライマリーにはない深い没入感。

(けどそれはプライマリに慣れちゃってビギナーズマインドを忘れてるからかもしれない)

シャラバーサナからの後屈シリーズでは、ポーズから繋ぐアップドッグの深さも違う。プライマリで散々やってきたアップドッグとはまるで別物。やばい、腰大丈夫か?と自分でびっくりするレベル。

この軽いトランス状態に病みつきになりつつ、ポーズが増えるにつれ徐々にきつくなる。

そして今日、パールシュヴァ・ダヌラーサナが新たに追加。

ダヌラーサナで横に転がるやつ。

 

きつい。

私、何で転がってるんだろう ぷぷ とか

ごろんごろん わーい とか

そういうガルバピンダ導入期のような微笑みと恥じらいがあるかと思いきや、そんな余裕は全然なかった。

時間的にもきつくなってきた。現在、フィニッシングまでに1時間50分。始業までに後がなくなってきたよ。

でも新たな世界に入っていく感じ、深まっていく感じが毎日楽しい。


今朝はパールスヴァ・ダヌラーサナの他にもnew newが。初めてのヨギトース・スキッドレス。



マンドゥカマーク入り♥︎

ヨギトースはマンドゥカに買収されたそう。


滑らかなマンドゥカラグと違って、なんちゃってジャンプスルー気分が味わえない。ごまかさないという点でいいことかも。

2014年8月13日水曜日

ブログ作ってみた。



初ブログ。

早朝マイソールが日課になって一年と半年。

日々の変化と気づきを書きとめてみたくなった。


粛々と繰り返す練習の中での体や感覚の微細な変化とか

微細な変化の積み重ねが表面化するときの驚きとか

体と心の見事な連動とか

それらを動かすミラクルないのちの仕組みとか

感情や思考の不安定ぶりとか 笑

対して、決して動じることも変化することもない静かな意識とか


徒然に記録してみたいなと。


正岡子規並みの写実主義を目指したい。
情緒に走りがちだから。


About me:

マイソール朝練歴 2013年2月から

アシュタンガ歴 2011年冬頃から定期的にレッド

ホームシャラ 飯田橋の犬がいるシャラ

1981年10月生まれ 女性

未婚、出産歴無 (妊婦練は憧れ)

都内勤務の会社員


 ダヌラーサナまで。



シャラのいぬ