ふとした拍子に今まで見えなかった誰かや何かの深い意図に気が付いて、感動に打ち震えることがある。
たとえば、私は製薬企業や医師をクライアントとして仕事をしているのだけど、以前はどこかで彼らに対する怖れがあった。
製薬企業や医師は、人の命に関わる公共性が高い役割を担っているので、不正だのスキャンダルだので世間の注目を浴びやすい。
職業カーストの上位で、かつビジネス食物連鎖の頂点に君臨しているので先生様様の構造が出来上がっているしね。
何だか、金と権力が渦巻く世界に感じて恐ろしかった。
知らなければ知らないほど、人は世間や妄想が作り上げたイメージに引きずられる。
でもね。色々なクライアントと仕事をご一緒させて頂く中で、ある意図に気づく。
より多くの患者さんを救うために。
より健康な世界のために。
より良い世界のために。
口にこそしないけど(当たり前すぎるから?) ありありと感じる。
大体、その深い意図がなければどうしてあんなに大変な職務に献身できるだろうか。それは職業に関わらないけどね。
サイエンスの人は実証主義で「愛や祈りは存在を証明できないから信じない」と考えるかもしれない。
ビジネスマインドの人は、論理重視の成果主義で、論拠のない精神論を好まないかもしれない。
でも、彼らを動かす動機や深い意図、そしてその行為そのものが私には愛と祈りにみえる。
私の父上は病院勤務の外科医で、激務すぎて家に全然いなかった。
団欒のない家で、ずっと寂しかった。この人は家庭を顧みないほどに社会のために身を捧げてるのだ、それほど立派な人なのだと、自分に言い聞かせていた。
でも、今になって分かる。
彼は自分個人の家庭を犠牲にして社会に尽くしてきたわけじゃない。
職務を通じて、一人でも多くの人を救うこと、幸せにすること。
それがより良い未来に繋がって、結果的には自分の家族やそのまた子供達に与えられる最大の利益になる。
深いところでそれを知っていたはずだと、今は分かる。
個人として家族を思えばこそ、それを置き去りにしてでも全体のために心身を削って働いてこれたのだと思う。
顧みなかったのではなくて、むしろ逆。それだけ愛が深かったのね。
かくして、寂しかった不遇の家庭の記憶は深い愛の歴史の記憶に変換される。
経験は選ぶことはできないけど、そこに何を見出すかは自分で選ぶことができる。どうせ見るなら、見たいものを。