2014年12月21日日曜日

ベートーヴェン第九、歓喜の歌

日本フィルの第九を聴いてきました。素晴らしかった~。

ベートーヴェンの第九が年末の風物詩のようになっているのは日本独特らしいけどこれはなかなか良い慣習だと思う。
第九の主題は歓喜、それも悲哀と苦悩を突き抜けた歓喜。自分も頑張って生きなければ、と思わされる。そんな第九を年末のような節目に聴く、というのはなかなか有意義なことじゃないかしら。

そして、背景を少し知っておくと更に鑑賞が深みを増す。

誰もが耳にしたことがある第九の合唱、歓喜の歌は詩人フリードリヒ・シラーの詩を使ったもの。(横浜みなとみらいに降りたことがある人は誰しも彼の詩を見たことがあるはず。あの駅中の巨大な自然賛歌の詩はシラーのもの)

ベートーヴェンは、貧乏に生まれて愛する母親を子供の時になくした。人一倍情熱的で愛を求め愛を与えようとした人であったにも関わらず愛した女性との恋愛は成就せずことごとくこの世的な幸せに見捨てられ、引き取った甥にその慈愛を捧げ尽くして「この子がいれば何もいらない」とまで神に祈ったのに息子と呼んで愛したその甥には疎まれ嫌われ非行に走られ挙句自殺未遂される。苦悩を音楽に昇華し音楽を生きがいにしようとするも耳が聴こえなくなり、その絶望たるや想像を絶する。不幸のデパートかよ。しかし病床にふして死を前にしてもなお彼はこう記した、

「辛抱しながら考える、一切の禍は何かしらよいものを伴ってくると」

....!!!! (ToT)できるなら 私は時空を超えてこの男の手をとりにいきたい。そしてあなたは独りじゃないと、世界中の人から讃えられ愛される価値のある人なのだと伝えたい。

この苦悩と絶望の淵から、ベートーヴェンは「歓喜の歌」を歌いあげたんである。いや、絶望を見たからこそあれだけ強く迷いなく、その不幸のフルコースみたいな生涯を最後は歓喜に昇華させることが出来たのかもしれない。

有名な話だけど、第九の初めての公演のときに彼は完全に聴力を失っていて雷鳴のようにとどろく拍手喝采が一切聴こえず、歌唱者の一人が彼の手をとって聴衆の方を向かせるまで気がつかなかったとか。200年近くがたった今我々がおくる割れるような拍手が、どうか彼の魂にも届きますようにと願わずにいられない。

ロマンロラン先生いわく
「どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか?中略 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中からの歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す--- それを世界に贈り物とするために。 彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛えだす。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮詰められており、またこれは、彼の雄々しい魂全体にとっての金言でもあった--- 悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」 (ロマンロラン、ベートーヴェンの生涯)




「歓喜に寄せて」

おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(ベートーヴェン作詞)
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄酒と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

神の壮麗な計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟よ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界よ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

出典: Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/歓喜の歌

0 件のコメント:

コメントを投稿