2014年11月18日火曜日

俗世で生きる・2

忙しくて自炊どころかゆっくりご飯を食べる余裕もとれない日々が続いてる。

丁寧にすべてを調え慈しむ禅寺の暮らしから急転直下。

心をこめてご飯を用意してそれを頂く、そんな余裕すらとれない人間が坐禅だのヨガだのやってる場合なのか?ふとそんなことを思って悲しくなってしまった。

でも。そんなことで迷って落ち込んではいけない、と思い直す。

出来ることをするべきだと、ロマンロランも言ってたではないか。

本意であろうとなかろうと、自分に与えられた役割や自分に出来ることを最大限に全うしたいと思う。自分のいるべき場所は今ここ以外にはどこにもない。今ここで自分自身を余すところなく使い切りたい。そうでなければ生かされている甲斐がないよ。

それがたとえシャンティからは程遠い経済活動の前線であったとしても、ここにいる以上は自分の持ち場で最大限に献身したい。それこそがヨガだと思うから。

真の祈りは儀式でもことばでもない、行為そのもの。私はそれを、祈りの力なんてまるで信じていないような、俗世で懸命に生きる人達の姿に教えてもらった。

どんな人もどんな環境であれ、その中でそれぞれ悩んだり迷ったり挫折したりしながらその人の世界を一生懸命に生きているのが分かる。そこにレベルが高いとか低いとかエネルギーが良いとか悪いとか、そんな優劣や貴賎はつけたくない。

そんなことを思った今日でした。


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