2014年11月30日日曜日

雨にも負けず

しばらく前に参加した医学系の学会で、東北大震災以降被災地で持続した医療を提供する為に奔走している医師の方の演題を拝聴した。最後に宮沢賢治の「雨にも負けず」を引用されていたのがずっと心に残っている。

「雨にも負けず」は以前から大好きな詩だけれど、被災地で利他行に心身を捧げる医師の方の口から聞くと一層重みを増した。学会の最中に一人涙ぐんだ。

でね。私が密かにこの詩の真髄と思っておりますのはココ。

「自分を勘定に入れず よく見聞きしわかり」

人は往々にして、自分に色んな「私」というラベルを貼りたくり感情とか観念とか色んなフィルタを通して物事を見ている。感情に振り回されたり便宜的な定義付けに知らぬ間に惑わされていたり、ありのままを見るというのはなかなかどうして難しい。

思い込みや期待をさっぴいて注意深く観察すれば気づいたであろうありのままの事象が、何年も、下手するといつまでも見えない分からないなんてことは意外とある。

この。気づいていない状態を「無知」と呼ぶのではなかろうか。

この私達の目を曇らすフィルタをあれもこれも全部そぎ落とした奥に残る純度100%な人の本質こそ無私の心、慈しみだと思う。

「私」という色んなレッテル、すなわち自我をとりはらったら無私になるってなんか当たり前だけどさ。 

全ては全体の為に。特定の愛する誰かの為だけではなくて、病める人、健やかな人、弱い人、強い人、清潔な人、不潔な人、優しい人、傲慢な人…ありとあらゆる人やもの全てを含んだこの世界を慈しむところに行き着くんではないかな。

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雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

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