2014年10月30日木曜日

ほどほどに

疲労がたまる木曜日。

今朝はカムアップでふらついて、気分が悪くなってアジャスト付きバックベンドをスキップした。

自覚している以上に疲れている模様。

心あたりがある。

禅の旅ですっかり坐禅が好きになったワタシ。
毎朝毎晩20〜30分座ることにした。

シャラまで出かけて2時間朝練することに比べたら余裕、などとのたまっていた。

ええ。余裕でしょう。朝練がなければ。
が、朝練生活のなかでの実行はかなり無理があることに気がついた。

坐禅(朝晩計50分)
朝練(120分)

毎日約3時間もひとりで自分に向き合ってる!!!笑

ちょっといっちゃってますね。
頭に足かけたり床転がったりさー。

そりゃ聞かれるよ、一体何を目指してるのかと。何も目指してないんだけどね orz

ちなみに、私は毎日10時間程度を会社で過ごすフルタイムの企業戦士でもあります。

最近は足腰が連日疲労困憊だし(ラグバジュラーサナの練習で)
そのうえ坐禅で寝不足って本末転倒というか社会人として問題ありでしょう。呆

義務を果たすべしとクリシュナさんも仰っています。

いい加減にしよう。

坐禅は時間がある日、朝か夜だけにする。
明日は朝練は休んでゆっくり寝ます。

2014年10月29日水曜日

太陽礼拝のススメ、ロマンロラン

ロマンロランの「ジャン・クリストフ」より。
全部ハイライトしたいぐらいいいこと言ってます。

“「信じていないとしたら、生きていられないはずだ。だれでも信じてるものだ。祈るがいいよ。」
「何を祈るんです?」

真赤な冷たい地平線に出かかってる太陽を、ゴットフリートは彼にさし示した。

「日の出にたいして、信心深くなければいけない。
一年後のことを、十年後のことを、考えてはいけない。
今日のことを考えるんだよ。
理屈を捨ててしまうがいい。
理屈はみんな、いいかね、たとい道徳の理屈でも、よくないものだ、馬鹿げたものだ、害になるものだ。
生活に無理をしてはいけない。
今日に生きるのだ。
その日その日にたいして信心深くしてるのだ。
その日その日を愛し、尊敬し、
ことにそれをしぼませず、
花を咲かすのを邪魔しないことだ。
今日のようにどんよりした陰気な一日でも、それを愛するのだ。
気をもんではいけない。
ごらんよ、今は冬だ。
何もかも眠っている。
がよい土地は、また眼を覚ますだろう。
よい土地でありさえすればいい、
よい土地のように辛抱強くありさえすればいい。
信心深くしてるんだよ。待つんだよ。
お前が善良なら、万事がうまくいくだろう。
もしお前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、
それでも、やはりそのままで満足していなければいけない。
もちろんそれ以上できないからだ。
それに、なぜそれ以上を望むんだい?
なぜできもしないことをあくせくするんだい? 
できることをしなければいけない……我が為し得る程度を。」 ”

ALS ICH KANN (I do as I can) 


みなさま良い一日を。

2014年10月28日火曜日

よどみに浮かぶうたかたは

抜けるような秋晴れの日。無常を思う。

なんだかんだと、目に見える変化が大きくて。あ、ラグバジュラーサナは立ててないけどね。

役目が果たされた関係性は速やかに解消されて、必要のなくなった場は速やかに消滅する。

"ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。"  方丈記

変わらないものはない。
良くも悪くも、すべては移ろう。

望ましいこともそうではないことも、
大切に味わったほうがいい。



あなたがいく学びの道が、楽しくて幸せなものでありますように

苦しいことや悲しいことが(なるべく)ありませんように

あったとしても、あなたがそれらから自由でいられますように

2014年10月24日金曜日

Within and without

“I was within and without. Simultaneously enchanted and repelled by the inexhaustible variety of life.”

― F. Scott Fitzgerald, The Great Gatsby


「僕はその内側にいながら、同時に外側にいた。人生の果てしのない多様性に、魅了されると同時に辟易していた。」

フィッツジェラルド、グレートギャッツビ―

Have a nice moon day.


2014年10月23日木曜日

一滴のしずく

All know that the drop merges into the ocean, but few know that the ocean merges into the drop.

ー Kabir

一滴の雫が海に溶け込むことは誰もが知っている。しかし、海が一滴の雫に溶け込むことを知る人はほとんどいない。

カビール


坐禅を続けているうちに感じる「自分と世界との境目が曖昧になる感覚」を思ったときに、ふと思い出した詩。

おぼろげな記憶で誰の詩かも知らなかったけど、ググッてみたらインドの宗教家のことばだった。




今朝は寝坊して朝一で座れなかった。

けどちょうどフルプライマリーデーだったので、シャバーサナを早めに切り上げて20分座れた。

うまいこといくもんだ。

皆よい1日を過ごせますように

2014年10月22日水曜日

ラグバジュラーサナ2カ月目

そういえば練習日記だった。このブログ。

ラグバジュラーサナ2か月目。一向に立てる気配なし。


ようやく足に力を入れたままアーチを描いた状態で降りられるようにはなってきた。

足強く。腰は前。胸は上。しっかり後屈したまま、ゆっくり着地。
最近は足元が視界に入る。(頸椎曲げ杉注意。。。)

日々良くなっている気がして、最近降りるときはいつも「今日は上がれるかも」などと思う。

が、着地したら最後、1ミリたりとも頭が上がらない。

ズルして手の位置を変えて押し上げようとしても全く上がらない。笑
先生に少し上げてもらっても、離された途端に落下していく体たらく。

なので、着地せず、自力で上がれるところまで降りて上がってくる練習を繰り返す。
きっつー。ふとももパンパン。カムアップどころか立つのもきつい位へなへなに。

これってこんなに力いるの?????
いや、ドロップバック&カムアップと同じで、上半身に余計な力が入っていると重くなるんだろうなー。


誕生日にはカポターサナかしらなんて無駄な皮算用をしていたけど、無期限延期の身通し。

禅の旅でご一緒した先輩アシュタンギたちも上がるのに半年かかったとか1年かかったとか言ってたし気長にやろっと。


「できない時期の大切さ」を朝練仲間と語らうことがある。

思うようにいかず、足止めくらってあーでもないこーでもないとストラグルしているときこそ気づくことが沢山ある。


私のポーズ進行に関して言えば、柔軟性でカバーしてる部分が多分にあって、このままサクサク進んでも確かに無理があった。

バンダはいまだ所在不明だし、ジャンプバック・スルーもインターミディエイト練習生にあるまじきドテドテぶりだし。orz

ポーズの難易度よりも、太陽礼拝や何気ないヴィンヤサにこそ練習の質が現れるものだし
地味な動作が洗練されていることこそ美しいと思う。地道に練習あるのみ。

何事においても停滞期や静止の時期は大事。

良くも悪くもすべては変化し続けるしね。今はこの状態を楽しみたいな。

2014年10月20日月曜日

Unspoken prayers

大好きな詩。

「病者の祈り」

大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ


 原文
"A Creed For Those Who has Suffered"


I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...

I asked for power, that I might have the praise of men

I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life

I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for

Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.

I am among all men, most richly blessed!


初めてこの詩を読んだときは号泣したね。

病者じゃなくても、願いの叶わぬ辛さややり切れなさは誰しもが経験するもの。太字の部分は普遍的な真理だと思う。

私の場合、結婚して子供を持って、家族のために生きる人生をずーっと切望してた。

仕事を通じて成長することも興味はなかったし、まさかいまだ1人でこんな修行僧みたいな暮らしをしてるなんて、1ミリも願っていなかった 笑

でも、願ってもいなかったすべての出会いに今は心から感謝している。

仕事仲間達や朝練仲間やシャラや先生や犬や禅の旅で出会った人達。

願った通りに結婚して家庭に生きてたら、この今はなかったからなあ。

最善のご縁が与えられている。
天の采配は人知を超えている。

だからそのときは分からなくても、
後で万事は完璧に繋がるのだと
信じていまを大切にするのみ。

ってジョブズも言ってたね。

2014年10月19日日曜日

坐法としてのアーサナ

今回の禅の旅では本格的に坐禅と応量器作法を実践させて頂いた。

坐禅は一炷(いっちゅう)といって40分(線香が一本燃え尽きる時間)が基本。10分休憩を挟んで二回座った。

座り慣れてないと40分はなかなか長くて初めは皆きつい〜という感想、でも思ったんだけど日々ヨガを練習してる我々はかなりアドバンテージがあるハズ。

だって一般のひと、とくに男性はまずパドマが組めなかったりするもんね。

各々、首が痛いとか脚が痛くなるとかブツブツ言いつつも、それは「スプタで腰が痛くなっちゃう」「えー、私は首だよー」とか言ってるのと同じレベルで、まず「それなりにできてる」「40分足を崩さずに結跏趺坐で座れる」スタート地点に立ててることはすごいことではなかろうか。

マイソール東京から参禅、アシュタンガ10年選手の美女Mちゃんはそのあまりに美しい坐禅姿に、我らが禅のグルジ・笹川老師が後ろで暫く合掌礼拝していたほど。

そんな美女アシュタンギの美坐法を目にあたりにしたせいか、笹川老師はヨガにも興味を示してくださった。

老師いわく只管打坐でひたすら座りまくる禅僧が腰を悪くすることは珍しくないらしい(!)

我々禅僧もヨガを取り入れないといかんね、と仰っていた。

実際、老師は正しく座れる身体づくりのためにストレッチや水泳をされているそう。

坐法としてのアーサナ練習の効能を改めて思った。

よく、アシュタンガヨガは目的も意図もなくひたすら練習するもの、とかいうけど副産物として得られる身体的な効果はやっぱり素晴らしい。

「われわれに必要なのは、鋼鉄の強さであり、同時にまた、その柔軟さである。(中略) そういう身体は、いつも健康で緊張がない。そういう身体で瞑想すれば、座ると同時に身体のことを忘れてしまう」

インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラより


2014年10月17日金曜日

分かち合う

連日、禅の話で失礼致します。
でもほらヨガも禅も真髄は同じだしさ。

余韻いまだ冷めやらず。

私にとって大きな変化をもたらす参禅の旅だったわけです。

変化。

まず、会社で自分のおやつを独り占めするのをやめた。笑

皆の分も買って一緒に食べる嬉しさは、私のおやつ予算を補って余りある価値があると気がついた。

効率化・最適化の為に、自分の業務と責任の範囲を明確に決めていたけど、それもやめた。

回らなくなったら皆で一緒に困って、一緒に対処を考えたらいいと思うようになった。

疲れて苛立って「それは私の仕事じゃない!」と言いたくなるときも、ぐっと飲み込んで茶話会での正法眼蔵随聞記の話を思い出す。

仏は求められれば自分の脚でも腕でも切って差し出すのだと。
もっともらしい「やらない理由」は我執によるものではないか、よくよく見極めるべしと。

身を切って差し出すことは出来なくても、自分に出来ること・差し出せるものは惜しむまいと決めた。

小さいけれど大きな変化。



腐りたくなるとき。
やってらんねーとなるとき。
へこたれたくなるとき。

「願わくばこの功徳をもって 遍く一切に及ぼし 我らと衆生と皆ともに 仏道を成ぜんことを…」

このマントラを思うと、色んなことを受け入れられる。頑張れる。

自分の行為が、それが些細な功徳であっても、きっと誰かのためになる。きっと誰かを救うことに繋がる。
そう信じることで自分自身がどれだけ救われるか分からない。

与えることと受けとることはやっぱり同じこと。

自他の区別をなくせばなくすほど、すべてが循環する。

おやつも仕事も、成功も失敗も、喜びも悲しみも痛みも、みんなで分かち合っていきたい。


今朝バックベンドで5秒くらい足首掴めたのも、きっと放擲の効果 v(^o^)v


2014年10月15日水曜日

坐る


恋に落ちてしまったもよう。

いまだに永平寺と天龍寺への愛しさで胸が溢れる。

俗世に問題なく復帰できるか不安だったけど、意外とすんなりと日常に戻った。

離れても、私はあなたのもの。同じ空の下にいる大切なあなたに恥じないよう背筋を伸ばして誠心誠意生きていくわ、みたいな感じ?


今回の参禅で深く腑に落ちたのは、
「自分を明け渡す」こと。


仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

(正法眼蔵現成公案より)

自分を見つめたおす。感じたおす。
自分だと思い込んでいたものを明け渡す。

しばらく坐禅をしていると、自分と世界の境目が曖昧になるような不思議な感覚になる。

意識が拡がって自分の身体から抜け出して、世界に溶けこむ感じ。

虫の声、物音、自分の呼吸音。
どれも等しく世界の一部。

無になんてそうなれない、雑念は浮かんでは消える。
感情も依然としてそこにある。

でも雑念や感情が自分自身なわけじゃない。
世界のなかにそれらがあるだけ。
虫の声と同じように。

どこからどこまでが「自分」なのか?

そうして自他の区別が消えて、雑念やら虫の声やら何からを含有する世界に意識が溶けていく。

そんな感じ。
身心脱落する、という表現は言い得て妙だなと思った。


ということで、毎朝30分早く起きて坐ることにしたよ。

考えたら、毎朝早朝にいそいそとシャラまで行って2時間朝練することに比べたらその位どうってことない。

アシュタンガの練習と違って、生理中でも体に不調があっても出来るしね。

朝練の質も大きく変わる確信がある。
なんという幸せ。


ああ。愛しきかな、天龍寺。

おやすみなさい。

合掌礼拝









2014年10月13日月曜日

禅の旅

参禅リトリート、福井県は永平寺へ2泊3日の禅の旅へ行ってきた。

引率は、雲水の星覚さんとchami先生。
http://unsui.net/mastar/

参加者は、CHAZENを含めた4つのシャラから集ったアシュタンガ練習生8名。

6時に渋谷に集合して、禅ワゴンで出発。

車を走らすこと6時間、お昼過ぎに福井県永平寺に到着。



滞在したのは永平寺近くの天龍寺さん。



永平寺に準じた修行ができる参禅道場です。












永平寺も素晴らしいのだけど、今回参禅させて頂いたこの天龍寺がまた素晴らしかった。

住職の笹川老師をはじめ、怖そうで優しい副住職、素晴らしく美味しいお食事を用意してくださる訥々とした尼僧さん、謎の放浪僧スナフキンさん…
みなさまが本当に魅力的で、思わず出家したくなってしまった。

とても贅沢な時間でございました。



天龍寺も永平寺も、離れがたかった。

ありがたいご縁に感謝でいっぱいなのと同時に、余韻冷めやらず、いまだ寂しさが残る。

虫の声や鐘の音、修行僧達の読経が今も響いて愛しさに胸がチクリとする。



練習を4日あけるなんて考えられないアシュタンガジャンキーの私が、一度も練習を恋しいと思わなかった。

大切な朝練を捨てても構わないと思ったよ。
捨てないけどね。

祈りを捧げること、自分を捨てること、身心を明け渡すこと、何者でもない自分を見つめること。

そのためにマットの上であれこれやっているということ。
そしてそれはマットの外でいつでもどこでも実践できるということ。

そういうことが改めてスコーンと腹に落ちた。

アーサナの練習で身心の安定と集中力を養い、行き着くところはやはり坐禅なのだな。

坐禅はこれから日課に組み込もう。

開枕(消灯)の時間でございますから
旅の気づきはまた後日。

おやすみなさい。

合掌礼拝




2014年10月9日木曜日

結実

満月の夜に、結実を思った。

クリシュナさんは言った。

私たちの職務は行為そのものにあると。
結果を行為の動機にしてはいけないと。
成功と不成功を同一のものとみて、諸々の行為をせよと。

でも私は思った。

仕事でも勉強でもヨガの練習でも
自己受容でも対人関係問題でも
ひたむきに目の前のことに向き合う人達みんな報われてほしい。

ひたむきに何かに向き合う人達みんな成功してほしい。

成功や結実をめいっぱい祝福したい。
頑張ってないひとなんて居ない。
みんな労われるべきだよ。

満ちては欠けるものだとしても。

やっぱりそう思う。
喜んで祝福して感謝して、それもすべて放擲したらいいじゃない。ね。


明日から永平寺に参禅の旅だよ。
仕事を放擲して…

2014年10月8日水曜日

胸を開く


仕事で新しいことを任されたときに、それがあまりにも自分の手に余るものだったので精神的に恐慌状態に陥った。

断ろうか、いっそ会社を辞めうか思い悩んだ。

そのとき、インド本社の社長にこう声をかけられた。


胸を開いて、新しいことを学ぶことを怖れずにただ楽しむんだよ。
怖れから何かにアプローチしてはいけない。
怖れは胸を閉じてしまうからね。
力を抜いて、胸を開くんだよ。
新しい経験を楽しむんだよ。


…バックベンドのアドバイスか?

奇しくも、その頃ちょうどマットの上ではカムアップに苦しんでいた。


自分の怖れとか弱さも含めたすべてに、ちゃんと向き合うこと。

胸を開くこと。経験すること。味わうこと。楽しむこと。


結局マットの上でも社会のなかでも個人的関係のなかでも、やることは同じだよね。

2014年10月7日火曜日

神楽坂デート

ムーンデーイブの今宵は朝練仲間の美女ピアニストと神楽坂デートしてきたよ。

洒落乙なベネツィア料理屋に連れてってもらたよ。


サプライズでバースデーお祝いしてもらたよ。


思いがけなくて泣けてしまたよ。


みんないつも優しくしてくれてありがとう。

夜更かしの飲んだくれで眠いよ。

Have a nice moonday! xo

2014年10月6日月曜日

大いなる混沌へ・ムンバイの話。

インドの会社に勤めている、というと「ヨガが好きだから?!」とよく聞かれるのだけどそうではなくて、純粋に事業内容で選んだのです。希望の分野で転職活動をしていて、たまたま最初に内定をもらったのがインドの会社だった、というだけなの。




偶然だけど、やっぱり運命的なものを感じる。インド本社への出張は「仕事でインド行けるなんてラッキー!!」と思ったし、マイソールを初体験したのも出張先で行ったアシュタンガヨガ・ムンバイだったしね。

ムンバイは日本でいえば東京、アメリカでいえばNYCのようなインド随一の経済都市。

首都のデリーと大きさはあまり変わらないけれど、雰囲気は大分違うらしい。デリーはとても保守的な街で女性が夜に出歩くなんてありえない雰囲気だそう。

ムンバイはインド版東京って感じなので、夜遅い時間でも若者どころか子連れの家族出歩いているし女子が一人で出歩いても全く問題ない感じ。ハイヒールやミニスカートも普通にいるし。

駐在も多いから西洋人のビジネスマンも沢山見かける。まあとにかく都会なのです。

デリー出身でカナダ育ちのシティガールなアシュタンギは「インドで住めるとしたらムンバイだけ」と言っていた。


夜の市街地。

駅。

電車。ドアなし。

こんな。因みに女性の絵は女性専用車マーク。


鉄分とシャクティ


よく、インドは行くと大好きになるか大嫌いになるかのどちらか、と言うけれど私は大好きになった。大好きというか、特別な感じ。街そのものにいたく心を動かされた。

混沌。研ぎ澄まされた静寂とは真逆の、大いなる混沌。

交通ルールも何もあったもんじゃない
道路は一触即発のぐちゃぐちゃで
歩行者や犬や猫が悠々と車やリキシャの間を縫って道を横断し


クラクションはビービ―明け方から夜中まで鳴り止まない。



神々を祀る寺院や神様の名前の道路やビルが立ち並び
敬虔に祈りを捧げるひとたちがいて
そのわきにはギョッとするようなゴミの山。



物乞いがそこかしこから手を差し出してきて
信じられないほどフレンドリーで親切な人達がいて
騙そうとして来るリキシャドライバーもいて
片言の英語しか通じない、つまり高等教育も受けられない貧困層の男の子が輝かしいほどのはにかんだ笑顔で一生懸命働いていたり
離婚したといって初対面の私に涙を見せる女性がいたり
駐在員やエリート達のやたらスノビッシュで退廃的なpartyとか。

もうめちゃくちゃ。何でもありの世界。全てがいちいち鮮烈。


世界は神聖な神殿でもあり、同時にゴミ捨て場でもあるような不思議な気持ちになる。

清濁併せのむとは正にこのこと。

そんな混沌をただ抱いて、美しいものも醜いものも何もかも受け入れて、日が昇っては沈むムンバイの街。

そこにいると世界のあまりの寛容さに胸が震えるのです。

だってさー、私の体内であんなカオスが繰り広げられてたら耐えられないよ。

免疫が総攻撃してゲーゲー吐いて強制浄化してるね。


私もムンバイ並みは無理だけど川崎市位には寛容でありたい。



いつかマイソールも必ずいきたいなー。

2014年10月5日日曜日

バガヴァッド・ギーター

昨日は、定例のバガヴァッド・ギータ勉強会。

ギーターは流石は聖典で、美しい真理のことば満載で大のお気に入り。 

これはヨガをやる人には必読のバイブルなわけだけど、ヨーガスートラと並んで私は無宗教の現代人が今こそ読むべき本じゃないかなーと私は思う。

ヨガはやらなくてもいいけど、そのエッセンスは皆が学ぶ機会があると良いと思う。仏教と同じく、宗教を超えた生きる智慧。

いじめ問題から中東問題まで、「なぜ人は愚かにも傷つけ合うのか?」「人は本質的に邪悪なのか?」
とか、そういう問いに対する答えをくれる。

私が一番好きな一節は、

「ヨーガを確立したひと、万物に自己が存するを認め、自己が万物に存するを認める」

見るもの全てに自らを見出し、自らの内に見るもの全てを見出す。

異質なものに対して、自分は違うと感じて排除しようとするからあらゆる諍いや不和が生じる。

そうではなくて、ああ、こういう要素もあるんだなー。ふーん。とただ認める。

そして、ここから更に応用できる心の対処法がヨーガスートラに書かれている。

「心の乱れなき清澄は、以下の四つの態度を培うことで保つことが出来る。
他の幸福への親しみ、不幸への憐れみ、美徳への喜び、不徳への無関心」

Undisturbed calmness of mind is attained by cultivating friendliness toward the happy, compassion for the unhappy, delight in the virtuous, and indifference toward the wicked.

Yoga sutra 1.33


他人や自分の不徳を、責めたり嘆いたりする必要はない。ただ無関心を決めこんだらいい。欲望に関心という餌をあげてはいけない。
で、幸福や美徳を見つけたら、しっかり喜んであげたらいい。

これはより良く生きるための大きなヒントになると思うな。


ギーター勉強会のあと、先生と犬と朝練仲間とカナルカフェへ。

先生が一緒だと、真面目なヨギック・トークに終始。

と思いきや、やっぱりふざけたガールズ・トーク炸裂の宴席に…



犬も一緒に飲んでるし…

で、夜も別の宴席で飲んだくれた私は今朝の朝練レッドクラスをまたしてもサボったのであった。

我が不徳には冷たい無関心を貫こう。

2014年10月2日木曜日

最小限で最大限の後屈


上を向く動きが大好きな私は、後屈のポーズではいつも最大限に首を後ろに倒して天を仰いできた。

アップドックはこんなイメージ。これよりももっと、派手に首を後屈させてたかも。



そしてこの頸部の後屈が頸椎症の禁忌と知った私。

頸椎を保護しながら練習を続けるべく、首を後ろに倒す動作を最小限にすることに。


*画像引用元: yoga journal 
http://www.yogajournal.com/pose/upward-facing-dog/


頸椎の後屈は必要最低限に。
それでも十分に胸を開いて後屈することはできるわけです。 


最小限の頸椎後屈を心がけてアップドッグをしていたら、なんだかすごく大事っぽいことに気が付いた!

私は首を最大限に倒すことで、胸も最大限に開くかのように錯覚していた。

首の後屈=胸の開き、 は錯覚。
もちろん相関関係はあるけどそれはイコールではない。

末端(首)を大袈裟に動かすことで、アーサナを最大限に深めているような錯覚に陥っていた。

逆に、末端の動きを最小限にすることで、コア(後屈なら胸)を最大限に使うことになる。

こりゃーね、自分で感じながら私は目から鱗がボロボロ落ちましたよ。

後屈だけじゃなくて、捻じりでも同じことが言える。マリーチCDは首の捻じりを最小限にする為に、体幹からめっちゃ捻じりにかかるわけです。

今までも、もちろん体幹を意識していたけれど、首を派手に動かしてドリシュティを斜め後ろのマットの人にすることで「めっちゃ捻じれてる~ワタシv」気分になっていた。

視覚や末端の大袈裟な動きは刺激が強いから、そっちに意識を持っていかれやすい。
で、コア部分へのフォーカスがおざなりに。

セカンドの後屈シリーズ+バックベンドも同様。頸椎の後屈をセーブしながら深い後屈ができるか不安だったけど、むしろ末端の動きで誤魔化さない分、胸を開いて腸腰筋と足を使った後屈の練習が出来た。

ドロップバック時にやっぱり指が痺れるし、首を守る為に慎重に慎重にやらざるをえないんですけどね。orz

しかし、この止むに止まれぬ頸椎保護作戦が逆にアーサナを深めるヒントに繋がるとは思わなんだサッチダナンダ

首を守ろうとすると、勝手に足や腰や胸や背中が頑張ってくれることにも驚いた。体ってすごいね。私の思考なんかよりよほど有能なんじゃないかしら?

Things will work itself out. 
狭量な思考でどうにかできることなんてたかが知れてる。
意図を捨てるべしとはこのことだな。身体のことは身体に任せてみたらいい。

腰と同様に、頸椎もいつか痛めずにグニャリと後屈させられる日がくるかもしれない。

けれど、この「最小限の末端の動きで、最大限にコアに働きかける」作戦は続けていきたい。
なかなかヨガらしくて良いじゃない?(^ν^) ウフフ



2014年10月1日水曜日

癒しのマイソール

今朝はシャラに天使が降臨した。

そう、タッチオブヘブンのアジャストを繰り出す、まさる先生の代行日。

まさる先生はまるで壊れものを触るかのように丁寧に優しくアジャストする。
手のひらから慈愛と優しさがほとばしる。
あれ私ってもしかしてすごく大切にされるべき存在なのかもとちょっとしたカタルシスが起きる。(え?情緒不安定?)

目の前にいる人を、目の前にあることを、一番大切にする。
「今ここ」をマインドフルに生きることを自然に実践しているんだろうなあ。

その無私で真摯な姿を思い出すだけで私はなんかじーんときてしまう(; ;)

パシャーサナ、べカアサナ、ダヌラーサナ、ウシュトラーサナと練習中のセカンドポーズ殆ど全部アジャストしてくれた。
ウシュトラーサナはじめてアジャストされたよ。腰をしっかり立てたまま前に前に。すると自然に胸は上に上に。おおー。
相変わらず一人でもがいてるラグバジュラーサナは、何も聞いてないのに実演付きで一生懸命教えてくれた。

もちろん、マイソールの練習は自分自身のものであって先生やアジャストに依存するものではない。
でも、だからこそ、毎日淡々と続けているなかで温かい手がそっと差し出されると心と体に沁みわたるのよね。


まさる先生の癒し効果はヒーリング・マイソールという新たなジャンルを確立できそうなレベル。

ヨーガチキッツァ、心身を癒すヨーガセラピー(フルプライマリーシリーズ)
〜ヒーラーまさるによる手当アジャストつきで〜

みたいな感じ?

ヨガの先生である以前に天性のヒーラーなのだと思う。
まるでサムサーラのハーラハラも癒す密林の治療師。


今日は誕生日なのだけど、朝から癒しのアジャストという素敵なギフトを頂いた。

そしてさりげなくプレゼントをくれた朝練仲間もいて感激してしまった。

みんな優しいよね。うるうる。

たくさんの人の存在があっていまの自分があること、ただただ感謝。



私も、いつ誰といても、目の前の相手をまるで世界で一番大切なひとのように慈しめるひとになりたい。