いまだに永平寺と天龍寺への愛しさで胸が溢れる。
俗世に問題なく復帰できるか不安だったけど、意外とすんなりと日常に戻った。
離れても、私はあなたのもの。同じ空の下にいる大切なあなたに恥じないよう背筋を伸ばして誠心誠意生きていくわ、みたいな感じ?
今回の参禅で深く腑に落ちたのは、
「自分を明け渡す」こと。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
(正法眼蔵現成公案より)
自分を見つめたおす。感じたおす。
自分だと思い込んでいたものを明け渡す。
しばらく坐禅をしていると、自分と世界の境目が曖昧になるような不思議な感覚になる。
意識が拡がって自分の身体から抜け出して、世界に溶けこむ感じ。
虫の声、物音、自分の呼吸音。
どれも等しく世界の一部。
無になんてそうなれない、雑念は浮かんでは消える。
感情も依然としてそこにある。
でも雑念や感情が自分自身なわけじゃない。
世界のなかにそれらがあるだけ。
虫の声と同じように。
どこからどこまでが「自分」なのか?
そうして自他の区別が消えて、雑念やら虫の声やら何からを含有する世界に意識が溶けていく。
そんな感じ。
身心脱落する、という表現は言い得て妙だなと思った。
ということで、毎朝30分早く起きて坐ることにしたよ。
考えたら、毎朝早朝にいそいそとシャラまで行って2時間朝練することに比べたらその位どうってことない。
アシュタンガの練習と違って、生理中でも体に不調があっても出来るしね。
朝練の質も大きく変わる確信がある。
なんという幸せ。
ああ。愛しきかな、天龍寺。
おやすみなさい。
合掌礼拝


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