2014年12月26日金曜日

おわりの日

仕事納めでした。
疲れた。疲れ果てた。

みんなすごいね。偉いね。
よく頑張ってるね。
本当にお疲れ様。


沢山助けてくれてどうもありがとう。
優しくしてくれてありがとう。

何度も何度も、あちらこちらで、あの人もこの人も、あの犬もあの野郎もあのおじさんも、みんな本当は天使なのかと思ってしまたよ。

あ、みんな仏なんだよね。知ってるよ。

2014年12月24日水曜日

ラグバジュラーサナ考(1) フィジカルなこと

Do your practice and all is coming . 99% practice and 1% theory.

グルジの言葉を胸に練習を積み重ねる内に、すっかりテクニカルなことへの興味がなくなってきていた。

が、ラグバジュラーサナが一向に立てる気がしないので久々にYouTubeでお勉強をしてみることに。色々みたけど、アーサナのレクチャー動画ならやっぱりこのHottest Ashtangi, Kino




「このポーズができない人の大半は、実は柔軟性の見地からアプローチしてしまっているのよ。」

!キノ、それは私のことだわ。

 「脊椎の柔軟性をある程度必要とする一方で、ラグバジュラーサナの主要な目的は、健全なバックベンドを支える大腿四頭筋と骨盤の強さにチャレンジすることなの。」

アイシー。このポーズの主題は「胸を開く」ではなくて「脚を強くする」なのね、キノ。
後屈が深まってきたー胸が全開で気持ちいールンルンなどと浮かれてそれで満足してる場合じゃなかったのね。

「ラグバジュラーサナは、インターミディエイトシリーズに出てくる強化ポーズの内の一つ。このポーズが安全に支障なく出来るかで、先に進む準備が出来ているかどうかを試すことができるわ。」

確かに、ラグバジュラーサナの特訓を始めてから最後のバックベンドが格段に進化した。
最初のウルドヴァダヌラーサナから踵に手が届きそうな勢いだし、ドロップバックからのカムアップは手に体重をかけずにワンタッチカムアップが可能になった。かつて腰の痛みナシでバックベンドが出来る日なんて一生来ない気がしていたのが嘘みたいに楽チン。頑強な脚と骨盤はより深い後屈を支える重要な基盤であることを実感してる。

そしてこれから先に進むには、まだ強さが十分ではない模様。

最近あまりにも立てる気がしないので、後屈が深くなったし足に力を入れたまま降りられるようになったしもう別にこれで十分じゃない?と思ってきてた。

でもまだまだ強くなれるし、きっと先に進める。(いつになるか分からないけど)
だってキノ姫もこう言ってくれてる。





「私もいまだにこのポーズのデモをやるとすごく太ももが痛くなるの。練習の後に太ももが痛くなったらグッドサインよ!ちゃんと太ももを使えてる、yay!って喜んでいいわ。あなたの太ももは強くなってる。


しかしキノたんかわゆすなあ。何だこの派手なねーちゃんは、と初めて見たときは思ったけど。ありのままの自分が大好き!感がとっても素敵な女性だなあと今は思います。ちょっと見習いたい、この女っぷり。

2014年12月23日火曜日

はじまりの日

ムーンデー明け、祝日マイソール。

サラリーマン的には月曜仕事に行って翌日休みという贅沢極まりない祝日スケジュール。

そして昨日は新月と冬至が重なった朔旦冬至。19年に一度の非常に珍しいことらしい。

ヨガびとにはお馴染みのムーンデー、新月は一つのサイクルの終わりと新しいサイクルの始まり。

冬至は「陰極まって陽となる」日照時間が一番短くなってそこからまた夏至に向けて日が長くなっていく転換の日。

そんな「新たなはじまり」感満載な朔旦冬至明けの練習は、天気も良くて気持ち良かったー。

ここからまた始まり、これからまた満ちてゆく、新たなサイクルが良きものでありますように。 

朔旦冬至の日、人が持つ無限の可能性について考えた。
それは今ここにはないものをどんどん「引き寄せ」たり、「創造する」のではなくて、私達はありとあらゆる種類の種子を既に持っているのだと感じます。

で、どの種子が育っていくかというのは無論色々な条件が作用するのだけど主要な条件はシンプルで「意識を当てること」ではないかしら。

自分の意識の光を当てた種子が育っていく、そんな感じ。

先のこと、迷っても不安でも信じられなくてもいい、「こうありたい」に意識を向け続けることが肝要なのだと思います。

みなさまの良き種子が健やかに実りますように。



2014年12月21日日曜日

ベートーヴェン第九、歓喜の歌

日本フィルの第九を聴いてきました。素晴らしかった~。

ベートーヴェンの第九が年末の風物詩のようになっているのは日本独特らしいけどこれはなかなか良い慣習だと思う。
第九の主題は歓喜、それも悲哀と苦悩を突き抜けた歓喜。自分も頑張って生きなければ、と思わされる。そんな第九を年末のような節目に聴く、というのはなかなか有意義なことじゃないかしら。

そして、背景を少し知っておくと更に鑑賞が深みを増す。

誰もが耳にしたことがある第九の合唱、歓喜の歌は詩人フリードリヒ・シラーの詩を使ったもの。(横浜みなとみらいに降りたことがある人は誰しも彼の詩を見たことがあるはず。あの駅中の巨大な自然賛歌の詩はシラーのもの)

ベートーヴェンは、貧乏に生まれて愛する母親を子供の時になくした。人一倍情熱的で愛を求め愛を与えようとした人であったにも関わらず愛した女性との恋愛は成就せずことごとくこの世的な幸せに見捨てられ、引き取った甥にその慈愛を捧げ尽くして「この子がいれば何もいらない」とまで神に祈ったのに息子と呼んで愛したその甥には疎まれ嫌われ非行に走られ挙句自殺未遂される。苦悩を音楽に昇華し音楽を生きがいにしようとするも耳が聴こえなくなり、その絶望たるや想像を絶する。不幸のデパートかよ。しかし病床にふして死を前にしてもなお彼はこう記した、

「辛抱しながら考える、一切の禍は何かしらよいものを伴ってくると」

....!!!! (ToT)できるなら 私は時空を超えてこの男の手をとりにいきたい。そしてあなたは独りじゃないと、世界中の人から讃えられ愛される価値のある人なのだと伝えたい。

この苦悩と絶望の淵から、ベートーヴェンは「歓喜の歌」を歌いあげたんである。いや、絶望を見たからこそあれだけ強く迷いなく、その不幸のフルコースみたいな生涯を最後は歓喜に昇華させることが出来たのかもしれない。

有名な話だけど、第九の初めての公演のときに彼は完全に聴力を失っていて雷鳴のようにとどろく拍手喝采が一切聴こえず、歌唱者の一人が彼の手をとって聴衆の方を向かせるまで気がつかなかったとか。200年近くがたった今我々がおくる割れるような拍手が、どうか彼の魂にも届きますようにと願わずにいられない。

ロマンロラン先生いわく
「どんな勝利がこの勝利に比肩し得るだろうか?中略 不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中からの歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す--- それを世界に贈り物とするために。 彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛えだす。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮詰められており、またこれは、彼の雄々しい魂全体にとっての金言でもあった--- 悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」 (ロマンロラン、ベートーヴェンの生涯)




「歓喜に寄せて」

おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(ベートーヴェン作詞)
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄酒と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

神の壮麗な計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟よ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界よ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

出典: Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/歓喜の歌

2014年12月20日土曜日

ワインとショパン

冷たい雨降る師走の土曜日、久々に美女とデート。

新宿御苑近く、美女オススメの国産ワインバーに16:30と早めの集合。このお店、16:00からやっているらしい。老人並みの早寝早起き人にはありがたい。

店内には国産ワインがずらり、ラベルのデザインを見ながら選ぶのも楽しい。


ワインに合う和テイストなご飯はどれもこれも絶品。白子の出汁醤油とか最高じゃった。

まったりとワインとご飯を堪能した後、初台のオペラシティへ。

ピアニストである今宵のマイデートの先生、某藝大の名誉教授によるデビュー50周年(!)リサイタル。オールショパンのプログラム。

エレガントで男前で情熱的で潔い演奏。なんというか白州正子を思わせる美しい女性。

満腹のほろ酔いで寝ちゃったらどうしよう、なんて心配も杞憂に終わった。むしろ酔ってるせいで魂剥き出し状態だったのか、涙が出るほど感動した。

迷いがあったらとても弾けないような曲を弾く。(プロだから当たり前か)  
でも、50年やってきて迷ったことがないわけがない。何かを50年続けるってすごいことだ。弾きたいという自我と情熱だけでこんな演奏が出来ると思わない。大きな力に「弾かされて」いるのを感じる。いやあ、生演奏はいいね。

もう私はまったく神々しさに打たれてしまい、その場で合掌礼拝或いはマットひいて太陽礼拝したくなる衝動をこらえて、ただ息をのむばかり。

ワインとショパンと美しい女性。
師走の忙しさで疲れきったサラリーマンにはとても贅沢な時間でございました。

2014年12月18日木曜日

味方でいる

かつて女子たちを夢中にさせたガールズトークドラマ、sex and the city
男性が見たらドン引きするであろう本音の弾丸ガールズトークがウィットとユーモアに富んでいて本当に面白かった。私はDVDを大人買いするほどハマってました。

これに夢中になった女子たちは皆多分三十路を過ぎているハズなので、いま20代以下の乙女達は見たことない人も結構いるのかしら。会話英語の勉強にもなるからおススメ。あ、男性にはススメマセン。

で、何を書きたかったかというと。

今でも印象に残ってる台詞やシーンは色々あるのだけど、なかでもコレ。

'When did you stop being on my side???'
'When did YOU stop being on my side???'

ヒロインのキャリーが、付き合い始めてまだ日の浅い恋人バーガーと口論になるシーン。

二人は意気投合してあっという間に親密になるのだけど、いざ付き合ってみるとどうも肝心なところでかみ合わない。

会話を楽しむだけの友達としてなら最高なのに、深い部分は共有できない。そんな感じのカップル。どうでもいいことで衝突が絶えなくなり、くだらないことで言い合った挙句に距離を置くことを決めるに至るこの台詞。

「一体いつから君は俺の味方でいるのを止めたんだ?」
「あなたこそ、いつから私の味方じゃなくなったの?」


相手の側に立つこと。相手の味方でいること。これ、パートナーシップの基本だよね。

すべては移ろう。人も当然変わる。
外的な要素どころか、価値観も志向も信念も時とともに変化する。

優しい人が苦難のときには狭量で意地悪になってしまうこともある。
前向きな人が試練のときには卑屈で陰気になってしまうこともある。

優しいあなたが好き、とか前向きなあなたが好き、とかそういう条件付きの愛情に基づいた関係は常に揺らぐことになるし、容易に破綻する。

そうではなくて、どんなときでも、相手の何が目についても味方でい続ける。
意地悪だろうと卑屈だろうと無神経だろうと不誠実だろうと、その側面を持って相手を見限ったり断じたりしない。

そういう無条件の愛と信頼を私は家族や親友達に教えてもらったので、自分も相手にそれを返したい。で、出来ることなら、全ての関わりある人に対してそういう姿勢でいたいと思う。


そして何よりもまず、自分自身との関係性においてこれを忘れずにいたい、と思うのです。(それが一番大事で難しい)

2014年12月17日水曜日

Bliss

手枕に身を愛すなり朧月  
与謝蕪村

マイムーン中につき、朝練はお休み中。それをいいことに仕事で連日遅くまでフル稼働中。朝に2時間長く眠れるのって大きい。

そんななか、朝日を浴びながらベッドの上で目を覚ました今朝、言い知れぬ至福感に打たれた。Totally in bliss!! 至福感というのは何気ない瞬間に突如として湧き上がる。

手枕に身を愛すなり陽の光

何もいらない。至福は自分の内に備わってる。



2014年12月16日火曜日

Gitanjali 34

ギータンジャリ、詩の捧げもの 34

私のものは少しも残さないで下さい
あなたこそ私の全てだと言えるように

私の意思は少しも残さないで下さい
あらゆる場所にあなたを感じられるように
全てのものにあなたを見出し
全ての瞬間にあなたへの愛を捧げられるように

私のものは何も残さないで下さい
あなたを決して覆い隠したりしないように

私を捕らえるものは何も残さないでください
あなたの御心に常に沿えますように
あなたの意図が私のいのちを通じて果たされますように

私の枷はあなたの愛だけなのですから

ラビンドラナート・タゴール

Let only that little be left of me
whereby I may name thee my all.

Let only that little be left of my will
whereby I may feel thee on every side,
and come to thee in everything,
and offer to thee my love every moment.

Let only that little be left of me
whereby I may never hide thee.

Let only that little of my fetters be left
whereby I am bound with thy will,
and thy purpose is carried out in my life---and that is the fetter of thy love.

Rabindranath Tagore

2014年12月15日月曜日

強さと勇気

本当に勇気を要するのは、難しいことにチャレンジすることよりも、自分の弱さに目を瞑らずありのまま認めることだと思う。

本当の強さを要するのは、難しいことが出来ることじゃなくて、出来ない自分に辛抱強く向き合うことだと思う。

出来る出来ないはもちろん、出来の優劣なんて全然問題じゃない。

そういうことは、全然上級者じゃない練習仲間達とか、不器用で脛も経歴も傷だらけみたいな人達に教えてもらったよ。

Kino姫も言っている。
Be stronger.

http://m.youtube.com/watch?v=msyFltpR-_c




2014年12月14日日曜日

無題

このブログ、朝練ばりにデイリー更新を目指してたのだけど、忙殺されて空いてしまった。先週も連日余裕がなくて、家には寝に帰ってるような状態。

想定外のトラブルもあって流石にへこたれそうになったのだけど、そんな時にはクライアントからのちょっとした感謝や労いの一言に大いに救われた。

私はクライアントへの愛だけで仕事してるような気がする。この人の為なら自分ができることは何でもしたい、と殆どのクライアントに対して思ってる。それだけ素敵な人達に恵まれているというのもあるし、或いは父への敬愛と恩返しの代替行為なのかもしれない。

いずれにしても確かなことは、自分自身だけの為にはここまでは頑張れなかった。沢山の人達にどんなに力を貰ってきたか分からない。ありがとうございます。

2014年12月9日火曜日

今日の後屈シリーズ

今朝も昨日に続き、自分の爪先を視界に捉えながら降りるのが楽しくてルンルンのラグバジュラーサナ。

やっぱり着地すると上がれないんだけれども、地面ぎりぎりで静止して上がってくる練習が今朝は恍惚的な気持ち良さだった。

足強く、腰は立てて前へ前へ。胸がものすごい開いて気持ち良い!力はそんなに入れずにスライドアップでゆっくりウシュトラーサナを通ってアップ。

ウシュトラーサナ、ラグバジュラーサナ、まだ進んでないけどカポターサナの一連のディープな後屈シリーズは股関節周りと胸と胸の裏側と喉元を全開にする強烈な効果があると思われる。


お絵かきしてみた。足先が見えてご機嫌な感じを表現してみた。



ひっくり返すとダヌラーサナに。


しっかり開いておくと最後のバックベンドも全然違う。

更にハートオープ二ングな感じを表現してみた。


おしまい。

2014年12月8日月曜日

ラグバジュラーサナ4か月目

9月の初旬にラグバジュラーサナに進んでから丸3か月が経過。こんなに止まると思わなかったなー。
過去に一番止まったカムアップも形だけなら3か月で立ててたから、最長記録かもしれない。

ただし、3か月で立てたカムアップは柔軟性に依存した不安定なものだった。その後4か月間はまともに立てず、立てても腰がミシっといく感じで、ジレンマと腰の痛みで随分辛い思いをした。もうあの手のイタい学びは十分なので、今回はじわじわと体が開いて強くなり自然に立てるようになるのを気楽に待とう。


で、本日の経過。

依然として着地すると自力で上がれない。
けれど、最近は最後までコントロールしながらゆっくり着地できるようになった。
着地せずに自力で上がれるところまで降りてそこから上がる練習は、床から数センチのところまで降りて静止できるようになってきた。

ウシュトラーサナの意識も変わった。腰を前に前に、しっかりと立てたまま胸を上に開いて後屈する。禅の旅でご一緒したvedaの美人でチャーミングな先輩、kmkさんの経験談を真似て8呼吸に増量。

そうこうしてるとラグバジュラで後屈していくときに自分の足先が目に入るようになった。わー!尾っぽみたいで可愛いー!と意味不明にテンションが上がる。
新たな視界が開けるのは楽しい。


そんなこんなで、今日は楽しく練習できました
\(^o^)/

2014年12月6日土曜日

ヨガはパフォーマンス?

吹奏楽団に入っている従姉妹の演奏会に行ってきた。

私は音楽のことはあまり分からないけど、ライブや演奏会って大好き。

皆とてもいい顔をしていて、そこに今までの「積み重ね」をみて胸を打たれる。きっと彼らが重ねてきたであろう、気の遠くなるような練習や努力の積み重ねを思う。

アシュタンガの練習を日課にするようになってから、とくにそういうことを繊細に感じやすくなってきた。(単に年を重ねると涙もろくなるだけかも)

よく、ヨガはパフォーマンスじゃない、スポーツと違って向上を目指したり競うものじゃない、と言う。

執着や自我の増長を戒めるためにあえてそう言うのよね、きっと。


でも、アスリートも音楽家も、ひたすら重ねるプラクティスは立派な「行」だし精神鍛錬だよね。 

無心の瞑想状態にもなるときもあるだろうし、執着に囚われて苦しむときもあるかもしれない。
悩むときも迷うときも、きっとある。
それでも続けられるのはそれが「好きでたまらない」からだろうし、それって自我のなせるワザじゃない?

それでも、それが自我と執着に根ざしたパフォーマンスであれ、彼らの晴れ舞台での輝く笑顔は本当に美しいと思う。私は手が痛くなるほど拍手せずにはいられない。
自我も捨てたもんじゃないねと思ったりする。

スポーツだろうとパフォーマンスだろうとヨガだろうと坐禅だろうと、本質は同じなんじゃないかしら。



そうそう、もう一つ思ったこと。
マットの上の練習はまるで人生の縮図だけど、オーケストラや吹奏楽の演奏もまた違った観点で人生の縮図。
みんながそれぞれ自分のパートを演じて、ひとつの壮大な曲を作り上げる。
フルートよりクラリネットが優るとか劣るとかない。
様々な違う楽器が調和してこそ美しい音楽になる。
我々個々人がやることは、自分の持ち場で自分のパートを一生懸命演じるのみ。

と考えると。我々ヨギは偉そうに「ヨガはパフォーマンスじゃない」と言ったりするけれど、人生はやっぱりパフォーマンスなのかもね。


2014年12月4日木曜日

深い意図

ふとした拍子に今まで見えなかった誰かや何かの深い意図に気が付いて、感動に打ち震えることがある。

たとえば、私は製薬企業や医師をクライアントとして仕事をしているのだけど、以前はどこかで彼らに対する怖れがあった。

製薬企業や医師は、人の命に関わる公共性が高い役割を担っているので、不正だのスキャンダルだので世間の注目を浴びやすい。

職業カーストの上位で、かつビジネス食物連鎖の頂点に君臨しているので先生様様の構造が出来上がっているしね。

何だか、金と権力が渦巻く世界に感じて恐ろしかった。
知らなければ知らないほど、人は世間や妄想が作り上げたイメージに引きずられる。

でもね。色々なクライアントと仕事をご一緒させて頂く中で、ある意図に気づく。

より多くの患者さんを救うために。
より健康な世界のために。
より良い世界のために。

口にこそしないけど(当たり前すぎるから?) ありありと感じる。

大体、その深い意図がなければどうしてあんなに大変な職務に献身できるだろうか。それは職業に関わらないけどね。

サイエンスの人は実証主義で「愛や祈りは存在を証明できないから信じない」と考えるかもしれない。

ビジネスマインドの人は、論理重視の成果主義で、論拠のない精神論を好まないかもしれない。

でも、彼らを動かす動機や深い意図、そしてその行為そのものが私には愛と祈りにみえる。



私の父上は病院勤務の外科医で、激務すぎて家に全然いなかった。

団欒のない家で、ずっと寂しかった。この人は家庭を顧みないほどに社会のために身を捧げてるのだ、それほど立派な人なのだと、自分に言い聞かせていた。

でも、今になって分かる。
彼は自分個人の家庭を犠牲にして社会に尽くしてきたわけじゃない。

職務を通じて、一人でも多くの人を救うこと、幸せにすること。
それがより良い未来に繋がって、結果的には自分の家族やそのまた子供達に与えられる最大の利益になる。
深いところでそれを知っていたはずだと、今は分かる。

個人として家族を思えばこそ、それを置き去りにしてでも全体のために心身を削って働いてこれたのだと思う。

顧みなかったのではなくて、むしろ逆。それだけ愛が深かったのね。

かくして、寂しかった不遇の家庭の記憶は深い愛の歴史の記憶に変換される。

経験は選ぶことはできないけど、そこに何を見出すかは自分で選ぶことができる。どうせ見るなら、見たいものを。



2014年12月2日火曜日

不器用な人

不器用で真っ直ぐで、うまく立ち回ることを知らない人を結構見てきた。脛が傷だらけになっても、狡猾になれない人。私はそういう人が好きだから、気になるのかもしれない。

以前はそういう人達のことを密かに心配したりしてたけど、今はしない。 

不器用な人はね、不器用なそのままでうんと愛されて大事にされることになっている。そういう出会いがもれなく与えられる。そういう居場所に辿り着く。ほんとだよ。

駆け引きや世渡り術なんて学ぶ必要ない。むしろ学ばない方がいい。

建前や策略が必要だと思って進めば、同じように考える人達に囲まれて本当にそれが必要な世界を生きることになる。

真っ直ぐさや情熱を指針に進めば、ちゃんとそれに調和した世界が構築される。同じ指針を持つ人たちに囲まれて。

だから大丈夫。不器用な人達はどうかそのままで。うんと幸せになってください。

2014年12月1日月曜日

怖れに向き合う

早いもので、今日から12月。
早い!早すぎる。

1月にインドに飛んでから、駆け抜けてここまでやってきた感がすごい。

新しい仕事を任されることが決まったのはちょうど一年前だろうか。荷が重過ぎて、暗澹たる思いだったのをよく覚えてる。

毎朝ヨガなんてやってさ、自分の内側に留まって静かに暮らしたいと願っていた。成長も戦いもすべて放棄したかった。ビジネスの前線に立つなんて冗談じゃないと思ってた。

静かに暮らしたいと思ってるときにインドに行かされるなんて、神様も冗談が過ぎると恨めしかった。嫌で嫌で、心は抵抗し続けた。最後は変化の波に押し流されるように重い心を引きずりインドへ向かった。変化すること、新しいチャレンジをすること、何もかもが怖くて神経衰弱状態だった。

自分の人生はいつまでたっても波乱万丈な気がして、肯定的に思えなかった。卑屈な気持ちになってしまって、悲しかった。

そんな私を、待ち受けていた人達はことごとく肯定的に受け入れて優しくサポートしてくれた。 

関わる人関わる人に、「あなたの感じてる怖れ、すべて妄想!分かった?」と言われてる気がした。

自分のことを否定的に見ていたのは、他ならぬ自分自身ただ一人だと思い知らされた。

孤軍奮闘だなんて思いこみもいいところ。道中、支えてくれた人達がいてここまで歩いてこれた。
色んなものを手放してきたし、色んなギフトを与えられてきた。

怖くてたまらない、向き合うこと取り組むことに勇気を要する道こそ選ぶべき道なのだと、今なら確信を持って言える。

それは、過去のパターンや妄想が生み出した怖れに打ち克つ絶好のチャンスだから。

自分を変える必要なんてない。怖れを克服して得るのは「より良い自分」へのバージョンアップではなくて、どんな自分にもYesと言える強さだと思う。

自分を制限してるのは自分自身だけ。自由にできるのも自分だけ。

残り一ヶ月。皆がよき年末を迎えられますように。


2014年11月30日日曜日

雨にも負けず

しばらく前に参加した医学系の学会で、東北大震災以降被災地で持続した医療を提供する為に奔走している医師の方の演題を拝聴した。最後に宮沢賢治の「雨にも負けず」を引用されていたのがずっと心に残っている。

「雨にも負けず」は以前から大好きな詩だけれど、被災地で利他行に心身を捧げる医師の方の口から聞くと一層重みを増した。学会の最中に一人涙ぐんだ。

でね。私が密かにこの詩の真髄と思っておりますのはココ。

「自分を勘定に入れず よく見聞きしわかり」

人は往々にして、自分に色んな「私」というラベルを貼りたくり感情とか観念とか色んなフィルタを通して物事を見ている。感情に振り回されたり便宜的な定義付けに知らぬ間に惑わされていたり、ありのままを見るというのはなかなかどうして難しい。

思い込みや期待をさっぴいて注意深く観察すれば気づいたであろうありのままの事象が、何年も、下手するといつまでも見えない分からないなんてことは意外とある。

この。気づいていない状態を「無知」と呼ぶのではなかろうか。

この私達の目を曇らすフィルタをあれもこれも全部そぎ落とした奥に残る純度100%な人の本質こそ無私の心、慈しみだと思う。

「私」という色んなレッテル、すなわち自我をとりはらったら無私になるってなんか当たり前だけどさ。 

全ては全体の為に。特定の愛する誰かの為だけではなくて、病める人、健やかな人、弱い人、強い人、清潔な人、不潔な人、優しい人、傲慢な人…ありとあらゆる人やもの全てを含んだこの世界を慈しむところに行き着くんではないかな。

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雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

2014年11月28日金曜日

願いごと

主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように

わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから

ー アッシジのフランシスコ 平和への祈り

Lord, make me an instrument of your peace;
where there is hatred, let me sow love;
when there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.
Grant that I may not so much seek
to be consoled as to console;
to be understood, as to understand,
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive,
it is in pardoning that we are pardoned,
and it is in dying [to ourselves] that we are born to eternal life.





2014年11月27日木曜日

Forgiveness

人間は神様ではない。

今日仕事でお会いした方が、臨床研究における不正についての話の中でこう言及されていて印象的だった。

誰しも完璧ではないわけです。当たり前だけど。至らない部分、臭いもの汚いものものがあって当然なわけです。肉体を持って自我を持って、生きている人間ですから。

その前提があって、我々は公共に関わる様々なシーンで円滑にことを進めるために倫理的なガイドラインやプロトコルを策定するわけです。

でね、自分も誰しも完璧じゃないし至らない部分だらけなのだ、というこの前提に立つことはビジネスの範疇を超えてとても大切。人は、これを認めてこそお互いに許し合い助け合い頼り合い補い合えるわけです。

当たり前のことだけど、私達は日頃、常にその前提に立てているかしら。

自分や人の至らなさを責める気持ちがあるとしたら、それは傲慢なことなのだと思う。(私はありますorz)


関係ないけど、今朝は昨日までとうって変わって好調な練習ができたよ。

空が段々明るくなってきて、白い雲がどこからともなく現れて、昇ってくる太陽に照らされてオレンジ色に染まるさまが美しかった。

この数日、あんなに苦しかったのが嘘みたいに胸が開いて気持ち良かった。

雨の日もあれば晴れの日もある。

良いときも悪いときも、良い部分も悪い部分も、すべてを慈しめたらいいね。自分のことも、人のことも、すべてのことを。

2014年11月26日水曜日

雨の日の太陽礼拝

今朝も5時に起きたけれど、気持ちがのらずシャラに足を運べず。で、30分かけて太陽礼拝ABを8回ずつやって出勤した。

ただただ深い呼吸に身を任せるうちに無心になっていく。あー。やっぱり太陽礼拝はいいね。

捨てるものが沢山ある、と思った。

ポーズに取り組んで自分を見つめるのが苦しくなるほど、私のマインドは色んなものを溜め込んでしまっていたらしい。

マインドの大掃除には太陽礼拝。

早いものでもうすぐ12月。年末は今年こそ太陽礼拝108回やってみようかな(^ν^)




2014年11月25日火曜日

今日は雨

5時に起きて朝練へ。
しっかり寝たし、回復してるかなーと思ったけど今日も一向に気が乗らず力が入らない。 

シャラのエネルギーを借りてなんとかフルプライマリーをやり切るも、やっぱりジャンプバックは殆どステップバックの棄権モード。

ウルドヴァダヌラーサナから何とか上がって、一応バックベンドはやっておきたいとドロップバックに入るも、脚に力が入らなくて全く立ち上がれない。
カムアップがまともに出来ないのは半年ぶり位。
びっくりするほど立てなくて、焦りで勢いをつけ始めてきたところで即中止。そんな風に無理やりバックベンドの練習したって何にもならない。苦しくなるだけだと、とっくに学んだはず。

そそくさとパスチモッターナサナに入ったら先生がアジャストしてきた。

やだなー、気づかないで欲しかった、あんな無様な練習はできれば見られたくないよ、今日はろくにバックベンドも出来てないんだからアジャストなんていらないのに、放っておいてくれたらいいのに…

などと思っているところに、触る手から労わる気持ちが伝わってきて泣けてしまった。

泣き出さないように息を止めて硬くしている背中を天使まさる並みに丁寧に伸ばしてくれた。

受け手の私が頑なになっているから、いくら触っても解れないのに。そう思ったらまた泣けた。

弱っているところに人の優しさを感知すると泣けてくる。

そんな日もあるね。明日も雨かしら。
今日元気じゃなかった人はみんな明日は元気になってるといいね。


2014年11月24日月曜日

グダグダの宅練

久々に宅練。寝坊が続いて今朝もシャラの時間に間に合わず。でも流石に身体を動かしたくなって、マットとすっかり重くなってしまった身体を引きずり出した。


太陽礼拝をしながら一向に気分が乗ってこない自分を観察する。

練習、したくない。 
全然したくない。

どっからどうみてもそんな気持ちを否定できない。うー、どうした私。 

スタンディングに入らず、このまま延々と太陽礼拝リピートコースにしようかという考えが頭をよぎる。

無気力状態の心を奮い立たせてスタンディングに入って、シッティングに入るも、もう途中で完全に棄権モードに入ってしまいジャンプバックは全部ステップバックにモディファイする始末。

数日間たっぷり休んだから身体はどこにも不調がないのに、ただただ練習が嫌で力が入らなかった。
ナバーサナのアップも全く持ち上げられず。バンダは気力に左右されるのかしら。

そんな状態で続けたら練習が嫌いになってしまいそうだし、よくないサムスカーラを蓄積しそうなのでハーフプライマリーで強制終了。

こんな日もある… のか?
朝練はじめて1年と9ヶ月。
こんな日ははじめてな気がする。

一時的な疲れだといいんだけど。
ゆっくり休もう。

2014年11月23日日曜日

青山さんぽ

相当疲労が溜まっていたらしい。
昨日も今日も昼過まで死んだように眠ってしまった。
朝練は3日連続おやすみ。

で、今日は外苑前の銀杏を目当てに青山を散策してきました。

珍しく宵っ張りコース。
16時に表参道集合。


まずは私の大好きな根津美術館へ。



いい感じに紅葉してました。
あっという間に日が暮れて、
17:00閉館時には真っ暗。
日の入りが早くなったなあ。

根津美術館から外苑前に向かって、ファッショナブルな表参道の街を歩く。

青山一丁目の駅近く、お腹が空いてきたところでオサレなインド料理屋発見。


ここが大当たり!!
私がムンバイ出張のときに感動した、本格南インド料理メニューが充実!


マイソール・マサラ ドーサ

ドーサ(インドのストリートフード、パリパリクレープの中にコロッケの具みたいに色々入ってる)の種類も充実。
アシュタンギとしてはマイソールを選んでみたよ。


私の愛したビンディ マサラ(ビンディ=オクラ)
南インド風・魚のカレー
豆のカレー

チャパティ、ロティ、南インド風ライス

ウマー。


南インドのデザートですって。
サービスでついてきたよ。
タピオカココナッツミルクみたい。


チャイと一緒に頂きました。

この他、タンドリーチキン、カッテージチーズと野菜の串焼きの2皿+お酒は1人2杯頼んで会計は1人たったの4千円!コスパばっちり。

あれこれサーブしようと手ぐすねをひいてインド人スタッフが待ち構えているサービスの良さはインドの高級ホテルを思い出しました。

アヒリヤさん、美味しいご飯と気持ちの良いサービスどうもありがとうございした。

皆さま、オススメです。
http://s.tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13172919/

大崎と代々木にも支店があるけど、南インド料理はこの青山店だけだそう。
青山散策の際はぜひどうぞ。

アヒリヤの皆様にナマステーと見送られ、満腹でふらふらしながらお目当ての銀杏並木へ。


夜の銀杏並木ははじめて。



静かで幻想的で、なかなか風情がありんした。

おわり。












2014年11月22日土曜日

お疲れ様でした

Happy Friday! 

皆様一週間お疲れ様でした。
素敵な週末を。



2014年11月18日火曜日

俗世で生きる・2

忙しくて自炊どころかゆっくりご飯を食べる余裕もとれない日々が続いてる。

丁寧にすべてを調え慈しむ禅寺の暮らしから急転直下。

心をこめてご飯を用意してそれを頂く、そんな余裕すらとれない人間が坐禅だのヨガだのやってる場合なのか?ふとそんなことを思って悲しくなってしまった。

でも。そんなことで迷って落ち込んではいけない、と思い直す。

出来ることをするべきだと、ロマンロランも言ってたではないか。

本意であろうとなかろうと、自分に与えられた役割や自分に出来ることを最大限に全うしたいと思う。自分のいるべき場所は今ここ以外にはどこにもない。今ここで自分自身を余すところなく使い切りたい。そうでなければ生かされている甲斐がないよ。

それがたとえシャンティからは程遠い経済活動の前線であったとしても、ここにいる以上は自分の持ち場で最大限に献身したい。それこそがヨガだと思うから。

真の祈りは儀式でもことばでもない、行為そのもの。私はそれを、祈りの力なんてまるで信じていないような、俗世で懸命に生きる人達の姿に教えてもらった。

どんな人もどんな環境であれ、その中でそれぞれ悩んだり迷ったり挫折したりしながらその人の世界を一生懸命に生きているのが分かる。そこにレベルが高いとか低いとかエネルギーが良いとか悪いとか、そんな優劣や貴賎はつけたくない。

そんなことを思った今日でした。


2014年11月17日月曜日

ちょっと変

今朝はマイムーン明け、6日ぶりの朝練でございました。

マイムーン明けはいつもリセットされて心機一転!な感じがするけど、今回は間が空いたため更に特別な感じがした。

新たな始まり感。
生まれ変わった感。

一週間前がえらく遠い昔に感じる。
えらい昔を今ありありと感じる。
何だか不思議な感じがする。

大きな決断をする人たちがいたり、周囲の変化が相変わらずめまぐるしいからかもしれない。
昨日は幼少期を過ごした街の散策をしたからかもしれない。
ヘッセのシッダールタを再読したからかもしれない。
眠くて頭が回ってないだけかもしれない。

Anyway. 

皆が素敵な一週間を過ごせますように。

おやすみなさい